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 北軽井沢・いのしし牧場 (2)
 インターネットで調べているうちに、北軽井沢に 「いのしし牧場」 があるのを知りました。貸し自転車屋のオヤジさんにだいたいの道筋を訊いて、そのいのしし牧場の方向に自転車で向かいました。

牧場に入っていくと、鉄柵で囲まれた大きなスペースの中にたくさんのいのししが歩き回ったり、寝転んだりしています。

そのスペースの高いところに鉄骨で組んだ通路がかかっており、私どもはそこからいのししの写真を撮ることができました。

この堂々たる体格のいのししくんは、顔を上げて私どもの方をにらんでいます。その風貌が、西遊記の猪八戒を思わせます。

北軽井沢

 いのししの中には、目が合うと、私どものほうに突進してくるものもいます。いのししは足が短いですが、草木が茂った山中でも時速40kmくらいのスピードで突進するそうです。

牧場は鉄柵で囲まれた大きなスペースですが、その内部は飼っているいのししの種類に応じてやはり鉄柵でいくつかに区分してあります。

こちらの区画に入っているいのししは、体つきが丸く太っており、体毛も上の写真のいのししより細く柔らかいように見えます(下の写真)。

イノブタといういのししと豚の交雑種があるそうですが、この区画ではそのイノブタを飼っているようです。

いのしし牧場

 通常、野生のいのししのオスと豚のメスを交尾させるとイノブタが生まれます。野生のいのししは繁殖期は年に一回ですが、イノブタは周年繁殖で季節を問わず1年中繁殖可能です。

イノブタの肉は、豚の肉のように脂くさくなく、歯ごたえがあっておいしいそうです。私も、昔、神奈川県厚木市の近くの温泉宿でイノブタの肉を食べたことがありましたが、現在ではそれがどのような味だったかは覚えていません。

下の写真は、小さい子供を連れたメスいのししです。このいのししも、ご覧のようになんとなくでっぷりと太っていて毛並みも薄く光っているので、イノブタと思われます。

私は昔子供のころ千葉県の田舎にいましたが、そのころ近所の農家で豚を飼っていました。その豚の子供は毛の色が白でしたが、このイノブタの子供は体毛がご覧のように赤褐色です。体つきも、豚の子供とちがって野生のいのししの子供に近いようです。

いわな

 野生のいのししの子供は、食用の瓜(うり)を連想させる横縞があるので、瓜坊(うりぼう)とよばれます。このイノブタの子供たちも、下の写真のように、少々ぼやけていますがやはり横縞があり、野生のいのししの子孫であるのがわかります。

鉄骨で組んだ通路から牧場の人がえさを投げると、これら瓜坊たちが土煙を上げて飛んできました。瓜坊たちは、やはり人間の子供と同じで非常にすばしこいので、写真を撮るのにだいぶ苦労しました。

いのしし


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(2017/09/14(木) 07:12)

 関東大震災94年
 1923年(大正12年)9月1日12時少し前に、神奈川県西部を震源とする巨大地震 「大正関東地震」 が起こりました。

今から6年半前、東北地方沖で発生した巨大地震で首都東京も震度5強の激しい揺れを経験し、私どもも大変恐ろしい思いをしました。
今後関東地方で発生が懸念される大きな地震に備えるために、94年前の大正関東地震について改めて調べました。

関東地震は、相模トラフを震源とするプレート境界型地震(海溝型地震)で、200年以上の周期で繰り返し発生すると考えられています。

関東大震災 大正関東地震は左図のように神奈川県西部を中心として発生したとされ、関東地方全域で本震と余震2回併せて計5分以上にわたって激しい揺れが続きました。

大正関東地震の規模はマグニチュード7.9で、阪神大震災の7.3を大きく上回るが、東日本大地震の9.0よりははるかに小さいということです。

 しかし、大正関東地震は東京・神奈川の大都市圏に近いところで発生したため、大きな災害を引き起こしました。

当時は東京市部でも炊事に薪炭を使っていましたが、大正関東地震は正午の少し前に発生したために市内の方々で昼食を作るための七輪などの火から火災が発生しました。

関東大震災 さらに悪いことに、その日は東京地方は台風による強風が吹いていたため、市内各所で火災はまたたく間に広がり、特に江東区など下町では地域全体が猛火に包まれました。

地震からおこった東京市の大火災は2日間にわたって猛威をふるい、地震の揺れで倒壊した建物とあわせて約30万戸の建物が失われました。

 この大災害によって、東京市だけで6万8000人の方々が命を奪われました。東京のような大都市が巨大地震に襲われた場合、その後に発生する大火災がいかに恐ろしい災害を引き起こすかがわかります。

その大災害を見て建築基準法が改正され、その後に建築された住宅は阪神淡路地震当時より格段に堅固になりました。一昨年の東日本大地震で仙台市の全壊棟数が阪神淡路地震当時の神戸市より比較的に少なかったのは、それが効果をあげたのでしょう。

関東大震災 94年前の関東大震災の際は、家財道具を積んで都心から避難する大八車で狭い道路が埋め尽くされ、周囲から飛んできた火の粉がそれに着火して大惨事になりました。
現在では、大八車に代わって、道路上で渋滞する多数の自動車に火が着いて積載しているガソリンが爆発し、道路がいたるところで火の海になるのではないかといわれます。

 現在の自動車数は、17年前の阪神淡路地震当時よりさらに大幅に増加しています。大地震の後、大都市中心部から自動車で避難するのはまず無理と考えるべきでしょう。


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(2017/09/12(火) 07:39)

 世田谷八幡宮・例大祭
 世田谷八幡宮は、戦国時代の16世紀に当時の世田谷領主吉良頼康が創建したといわれます。吉良氏は武道の神様である八幡大神をうやまい、八播神社を世田谷にいくつも建立しています。

城山通りに面して建てられている赤い大鳥居を通って境内に入ると、参道の先にもうひとつ石造りの鳥居があります。

世田谷八幡宮

世田谷八幡宮 石鳥居に向かって右側には小さな池があり、そこから小川が流れるように造ってあります。小川のほとりに赤い鳥居があり、その奥に小川を渡る赤い小橋があります。

その橋を渡ったところに「厳島神社」という小さな祠が置かれてあります。安芸宮島の厳島神社の神霊を勧請したものだそうです。

 石鳥居をくぐると、高い樹木に囲まれて薄暗い中に高い石階段が伸びています。それを登ったところに広場があり、その正面に世田谷八幡宮の本殿がそびえています。

八幡宮は八幡神を祭神とする神社で、全国に約44,000社あります。大分県宇佐市の宇佐神宮が全国の八幡宮の総本社とされ、この世田谷八幡宮もまた宇佐神宮の分社だそうです。

現在の本殿は昭和39年に鉄筋コンクリート建で造営されたものですが、それ以前の文化10年(1813)の建築といわれる本殿はそのまま現在の本殿の中に納められているそうです。

世田谷八幡宮

現在の世田谷八幡宮本殿は、上の写真のようにかなりの大きさがあり、なかなか堂々とした造りです。秋の例大祭の際には、ご覧のように本殿前の広場には赤ちょうちんが空中に張り巡らされ、本殿の両側にはさまざまな社幟がかかげられます。

世田谷八幡宮は、古来、世田谷の鎮守として多くの人達に厚く信仰されてきました。例大祭の際には、世田谷在住の方はもちろんのこと、遠方からの信者の皆さんも絶えることなく参拝に訪れます。

世田谷八幡宮


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(2017/09/10(日) 07:36)

 箱根・ポーラ美術館 (2)
 1883年、43歳のとき、モネはセーヌ川下流のジベルニーに移り住みました。以降、その近くの農村風景、水辺の風景、ノルマンディのルーアン大聖堂などを、制作のテーマとして取り上げるようになりました。

そのころから積みわらの微妙な光と影を描くようになり、30点にものぼる 「積みわら」 の連作が生まれました。下の絵画は 「ジベルニーの積みわら」 という作品で、1884年、モネ44歳のときの作です。

初期の 「積みわら」 は、積みわらとその周りの樹木、野原などをいっしょに描いた作品が多いようです。後期になると、積みわらだけを取り上げ、そのデリケートな色彩の変化を追及した作品が多くなります。

ポーラ美術館

 モネは、ロンドンのテムズ川に立ち込める霧が周囲の風景にどのように影響を及ぼすかに深い興味をいだき、ロンドンを訪れたそうです。その結果が、テムズ川にかかる橋の連作、そしてこの 「国会議事堂」 の連作として、現在に残っています。

モネのロンドン滞在は、1899年から1905年にいたるまで、数度にわたりました。「国会議事堂」 の連作は、点数は数えたことはありませんが10点以上あるかと思われます。

ポーラ美術館にあるのは、下図の 「国会議事堂 バラ色のシンフォニー」 という作品です。ロンドン・テムズ河畔の国会議事堂が、朝焼けの霧の中、青いシルエットを浮かばせている構図です。1900年、モネが60歳のときの作品です。

ポーラ美術館

 ポール・セザンヌは、モネとほぼ同じ年に生まれ、1874年の第1回印象派展にも出展しました。しかし、やがてモネの印象派手法とは一線を画する幾何学的なフォルムの創造に没頭しはじめました。後世のピカソなどキュビスム作家は、セザンヌの影響を強く受けたとされます。

セザンヌは、生涯に60点以上もの静物画を制作したといわれます。世間から認められない時代が長く続いたので、手近にある静物を描いたのでしょうか。しかしその結果、現在では静物画の名作といえばまずセザンヌの名前があげられるようになりました。

下の作品は、セザンヌが54歳ごろ制作した 「砂糖つぼ、梨とテーブルクロス」 と題された静物画です。セザンヌは、洋ナシの形状の面白さに惹かれ、静物画によくとりあげました。それら対象物の形状ももちろんのこと、色彩のあざやかさも目を奪われるばかりです。

ポーラ美術館


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(2017/09/08(金) 07:56)

 箱根湯本・早雲寺
 小田急ロマンスカーの終点箱根湯本駅は早川の渓谷の脇にあり、駅前を通る道路はその渓谷に沿って続いています。

箱根湯本駅前から道路を渡ると、すぐ早川の渓谷にかかる橋の上に出ます。岩石の層理のために階段のようになった川床を、早川の急流が白くしぶきをあげながら駆け下ります(下の写真)。

鮎釣りでしょうか、釣り人たちが、その急流の中にまで入って長い釣竿を振っていました。釣竿を勢いよく振うたびに、釣竿が強い真夏の陽光を反射してきらりと光りました。

箱根湯本

 戦国時代に伊豆を支配した北条氏五代の菩提寺として有名な箱根早雲寺は、箱根湯本の駅から歩いて10分ほどのところにあります。

箱根湯本駅を出て早川の渓谷にかかる橋を渡り、少し歩いて箱根湯本町役場のところから急な山道に入りました。

やがて広い街道に出て、それを箱根の夏景色を楽しみながらしばらく歩くと早雲寺の前に出ました。下の写真は、早雲寺の山門です。

戦国時代初期の武将北條早雲は、16世紀はじめに伊豆・相模を制圧しました。早雲は箱根・湯本の地を愛し、しばしば訪れたそうです。

箱根湯本

 北條早雲は1519年9月に亡くなりましたが、その早雲の遺言により、北条二代氏綱が箱根湯本に早雲寺を創建しました。

早雲寺は臨済宗大徳寺派の禅寺で、最盛時には本堂のほかに十を超える塔頭があり、さらに僧侶の寮舎が多数建ち並んでいました。

当時は、早雲寺は関東随一の大寺といわれたそうです。箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったとのことです。

四代氏政のとき豊臣秀吉の小田原攻めにあい、早雲寺の堂宇は焼き払われました。その後、江戸時代になって再建されましたが、現在では江戸時代に再建された本堂があるのみです(下の写真)。

箱根湯本

 山門の左側には鐘楼があり、大きな古い梵鐘が吊されています。早雲寺創建当時からの鐘で、現在県の重要文化財に指定されています。

豊臣秀吉が北條氏を攻めて小田原に押し寄せたとき、石垣山に有名な一夜城を造りましたが、その際この鐘は一夜城に持って行かれ、軍勢の陣鐘として使われたといわれます。

早雲寺の境内には、豊臣秀吉が小田原攻めをしたときに使ったとされる井戸も残っているそうです。400年以上前から使われている井戸ということになります。

箱根湯本


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(2017/09/06(水) 06:47)

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