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 京都・詩仙堂
詩仙堂  「宮本吉岡決闘之地」 から500mほど東に歩くと、古風な門が見えてきました。これが京都の名園として有名な詩仙堂の山門です。
詩仙堂は徳川家の家臣石川丈山が59歳のときに造営した山荘で、丈山は90歳で没するまでここで風雅な生活を送りました。江戸初期の山荘の姿を現在まで伝えています。

詩仙堂 詩仙堂にはみごとな庭園があり、四季の景観が楽しめると聞いていますが、あいにくこのころから雲が厚くなり、あたりは暗くなってきました。
他にも見たいところがあるので、残念ながら詩仙堂は屋敷の外から写真を撮るだけにしました。左は庭園の一部で丸く刈り込んださつきが見えます。

詩仙堂 入口に立つと左側に「史蹟詩仙堂」の碑がありました。碑の先にある正面の門は小有洞とよばれます。
小有洞を入ると巾の広い石段があり、その両側は密集した竹林になっています。
日光が遮られてほのぐらい中をゆっくりと登って行くと、老梅関という門の内側に詩仙堂の玄関が見えてきました。

詩仙堂 玄関の上は三階建の「嘯月楼」という建物で、仏間、座敷、「詩仙の間」、「読書の間」などの部屋があるそうです。写真は庭園に面した座敷の一部です。
詩仙の間という四畳半の部屋には中国の詩家36人の肖像が掲げられているそうです。それにちなんで山荘は詩仙堂とよばれるようになりました。

 石川丈山は優れた造園家でもあったということです。その丈山により設計された庭は四季折々にさまざまな表情を見せ、訪れる人を楽しませます。特に春5月ごろのサツキと秋11月ごろの紅葉がみごとで、多数の観光客で賑わいます。

庭園には白砂が敷きつめられており、枯山水風に多数の石がおかれています(下の写真)。庭の隅に設けられたししおどしの鋭い音が、その庭園に響いていました。

詩仙堂


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(2018/03/31(土) 06:26)

 桜満開 / 吞川親水公園
吞川親水公園 国道246線を渋谷から南に向かい、桜新町の近くにくると、道路の左側に小川が伸びていて、その両側に桜の大木が並んでいます。
これが「呑川親水公園」です。呑川は、もとはかなり大きな川だったとのことですが、その流域があらかた都市化したことにより、現在では川の大部分が暗渠になっています。

吞川親水公園 「呑川親水公園」では、暗渠の上部に1kmほどにわたって小川をつくり、下水の高度処理水というきれいな水などをポンプで流しています。都心に近い住宅地としては数少ない緑豊かな水辺となっています。
その小川の両側にソメイヨシノの大木の並木が伸びており、その下に石畳の遊歩道が設けられています。

吞川親水公園 毎年春の桜のシーズンには、川筋に沿って見通すかぎりの豪華な花のトンネルができ、小川の両側の遊歩道には桜を愛でる人々がひきも切らず通ります。
小川の両側の遊歩道は、自動車はこの地区の住人だけのようで通行が少ないので、のんびりと桜の花を見上げながら歩いていても心配はありません。

 この小川には、カルガモ、ガン、オシドリなど、各種の水鳥がたくさん住み着いています。また、多摩川、大井埠頭、不忍池など東京の水辺に住んでいる水鳥たちが、ここに飛来することもあるそうです。

春先には水鳥たちのヒナが誕生し、ピヨピヨと鳴きながら親鳥のあとを一生懸命追っかけて小川の水面を泳ぎまわります。

吞川親水公園

 呑川は、広大な世田谷深沢の住宅地の中央を通って自由が丘のほうに流れています。大昔は深沢地区は畑が広がっていたそうですが、この呑川の周りは広い田んぼだったのでしょう。

このあたりは深沢住宅地の中心で戸建て住宅が多いところですが、都心へのアクセスもよいので最近はマンションが増えつつあります。呑川の川筋を借景として、マンションの見栄えが大変よくなります (^_^)

吞川親水公園



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(2018/03/29(木) 07:25)

 焚き火でチャーハン
羽根木 羽根木公園で梅園の反対側に「プレーパーク」という子供の遊び場があります。公園として整備されたところではなく、ただの原っぱがあるだけです。

皆様も、子供のころこのような原っぱで落とし穴を掘ったり、小屋を作ったり、木に登ったりして遊んだことがあったでしょう。

羽根木 現在は、子供たちが原っぱで自由に遊び、それにより体力をつけたり創造力を養ったりする機会が少なくなりました。
そこで世田谷区は、区立公園内の遊休スペースを「プレーパーク」として子供たちの自由な活動の場に開放しました。現在世田谷区にはこのようなプレーパークが3ヶ所あります。

羽根木各プレーパークには常駐のリーダーがいて、父兄とともに子供たちの原っぱ遊びを指導しています。その指導のもと、子供たちは自分たちの思うように遊び心を発揮して楽しんでいます。

公園のよい空気をいっぱい吸って一日中遊べば、当然お腹がすいて背中とお腹がくっつきそうになります。

羽根木そこで、父兄たちが特製の野外料理を作ってくれました。まず、公園の隅の方から落ち葉をたくさん集めて、石の炉に入れて火をおこします。ここでは父兄が火を起こすのが認められています。
父兄の中には野外料理の達人がいて、大きなフライパンを火にかけて具をいためてから冷や飯を入れます。

羽根木 まもなく上の写真のように立派なチャーハンがフライパンの中に出来上がりました。続いて、ずん胴の大なべに湯をわかし、青菜を入れておいしそうな味噌汁を作りました。
その匂いをかぎつけ、子供たちがパーク内の方々からいっせいに目を輝かせて集まってきて、焚き火の周りをとり囲みました (^_^)

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(2018/03/27(火) 06:35)

 旧音楽学校奏楽堂
旧音楽学校奏楽堂 東京藝術大学の前身東京音楽学校は、日本の音楽教育の中心として多数の人材を世に送り出しました。
学校の中央部分に置かれていた奏楽堂は、パリに留学した山口半六という建築家によって設計された日本最古の木造洋式音楽ホールで、音楽学校での練習、発表の場として長く使用されました。

旧音楽学校奏楽堂 昭和59年に旧奏楽堂は解体され、その後建築各部の部材を整備補修したうえ上野公園北端、東京都美術館の北側に移築されました。
木造の大きな門から入ると、古風な車寄せのついた玄関が見えました。旧奏楽堂の創建当時は、写真左側の門から馬車が入ってこの車寄せで止まったことでしょう。


旧音楽学校奏楽堂東京音楽学校の卒業生の中に、日本の西洋音楽創成期で活躍した滝廉太郎がいます。滝廉太郎は1879年生まれで、作曲とピアノ演奏で優れた才能を発揮しました。左の写真は、旧奏楽堂入口の横にあった滝廉太郎の銅像です。旧奏楽堂一階の常設展示場には、滝さんの手稿、遺品などが展示されていました。

旧音楽学校奏楽堂 奏楽堂として使われていたのはこの建物の二階部分だったとのことです。しかし、現在ではこの建物全体が旧音楽学校奏楽堂と呼ばれています。
建物の一階には常設展示場があり、旧奏楽堂の創建以来現在に至るまでの歴史、各時代の演奏家たち、音楽ホールの造りなどに関する史料が展示されています。

旧音楽学校奏楽堂 常設展示場では、三浦環など当時の音楽学校卒業生らが残した演奏録音を鑑賞できます。瑞々しい歌唱に感銘を受けました。
昔のホテルの階段のような木の階段で、旧奏楽堂の二階に向かいました。旧奏楽堂の音楽ホールは階段教室のような造りになっており、客席は旧奏楽堂の二階から入ります。


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(2018/03/25(日) 06:51)

 真鶴漁港
 中川一政美術館からバスに乗り、真鶴港に着きました。真鶴港は昭和9年(1934年)3月に建設され、以後漁港・石材積み出し港として真鶴町の発展を牽引してきました。

その後港内の魚市場「魚座」の完成、遊覧船の就航により、真鶴港は観光の拠点としても重要な役割をはたすようになりました。

バス停で降りて港内を見渡すと、少し離れた突堤の先に赤い小さな灯台が立っているのが見えました。たしか、中川一政さんの絵画にこの灯台を描いたのがあったと思います。

真鶴漁港

 真鶴周辺の海は複雑に入り組んだ岩海岸なので、かさご、しゃこ、うつぼ、いせえびなどがよく獲れる良い漁場だそうです。広くない真鶴漁港の中には、漁船、遊覧船など小型船が多数行き交っていて、活気にあふれていました。

真鶴には、平坦な土地はほとんどありません。漁港の裏にはすぐ山が迫っており、海岸近くの狭い土地に漁港のさまざまな施設や観光客相手のレストランなどがひしめくように建っています。

真鶴漁港

真鶴漁港 朝早く真鶴にきて三ツ石と中川美術館を見たので、大分おなかがすきました。
漁港の近くで本場の海の幸をいただこうと思います。
鯛やいせえびの生き造りも食べられるそうです。

食の情報は、土地の人かタクシーやバスの運転手さんに尋ねると、たいていよい場所を教えてくれます。

真鶴漁港今回は、バスの運転手さん推薦の漁港の近くにある料理屋に入りました。まずは熱燗を注文すると、その突き出しに店で作った烏賊の塩辛が出てきましたが、一口食べて力強い味に圧倒されました。
やがて、注文した鯛の生き造りが出てきました。鯛の生き造りなんて、私はここ十年以上食べていません。

真鶴漁港 さっそくお皿の中の鯛の刺身に箸を伸ばすと、突然鯛くんが口をぱくぱくさせ、同時に尾びれをばたばた振りました。
この鯛くんの勢いに、しばらくは食べるどころではなく見つめるのみでした。
生き造りのほかに鯛の煮付けが出てきました。金目鯛の刺身、かさごのから揚げも小鉢でいただきました。

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(2018/03/23(金) 06:33)

 京都一乗寺かいわい
一乗寺かいわい 思い立って、久しぶりに京都を訪れました。
これまで数度京都旅行をしましたが、洛北鞍馬の方向には一度も行っていません。寒さが薄れるこの時期に、当地の名勝・史跡を訪ねましょう。
新幹線・京都駅で降り、そこからJR奈良線で東福寺に行き、京阪電車に乗りかえて加茂川に沿って北上して出町柳駅に行きます。

一乗寺かいわい 出町柳は加茂川に高野川が合流するところで、昔からの交通の要衝です。
そこから叡山電鉄という小さな電車に乗り、北の比叡山の方向に行きます。
叡山電鉄は京阪電気鉄道が運営するミニ電鉄です。車両はさまざまな形式があるようですが、私どもが乗ったのは写真のワンマンカーでした。

一乗寺かいわい叡山電鉄は山登りをするためでしょうか、ミニ電鉄としては珍しく標準軌(線路幅1435mm)を採用しています。そのため車両内部は広く、ゆったりとした乗り心地が楽しめました。
出町柳駅から3つ目の一乗寺駅で降りました。この辺は最近は観光客が多いはずですが、一乗寺駅はご覧のような田舎の駅舎でした。

一乗寺かいわい 一乗寺駅から山が見える方向に10分ほども歩くと、道端に大きな自然石の碑が2つ立っていました。
向かって右側の石碑には 「大楠公戦陣跡」 と彫られていました。1336年、楠正成が鎌倉から京都に攻め上ってきた足利尊氏の大軍をこの地で迎え撃って勝利を収めたのを記念するものです。

一乗寺かいわい もう一方の丈が高い黒い石碑には 「宮本吉岡決闘之地」 とありました。
1604年、剣客宮本武蔵はこの一乗寺下がり松の地で京都の吉岡道場側一派と最後の決闘を行い、勝利を得ました。
この石碑は大正時代の1921年にその宮本武蔵の闘いを記念して武道家堀正平が建立したものだそうです。


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(2018/03/21(水) 07:28)

 羽根木公園・梅祭り (3)
 世田谷区立羽根木公園の入口には大きな石段がありますが、その下に立って目の前の丘を見上げると大きな紅梅の木が扇のように枝を広げています。

春の梅祭りの時期には、下の写真のように紅梅が花盛りになり早春の空を圧するばかりの存在感を示します。入園者の皆さんは、この紅梅の前に立ち、こずえを見上げて感嘆の声をあげます。

羽根木・梅祭り

 羽根木公園では、梅祭りの期間にさまざまなイベントが開催されます。私どもが行ったときは、入口横の広場で、子供たちのグループがなにか幕末の出来事を記念するイベントをしていました。

水色の羽織をつけ、鉢巻をした子供たちが、太鼓を打ち鳴らして大声でなにか叫んでいます。近くにある松蔭神社でこのようなイベントを見かけましたが、そのグループがここに出張しているのかも知れません。

羽根木・梅祭り

羽根木・梅祭り  公園の反対側にある広場では、広場の中のテーブルに子供たちが12、3人座り、そのまわりに父兄たちが集まっていました。
テーブルには白いクロスがかけられており、テーブルに座った子供たちの前にはおいしそうなケーキが並べられています。どうやら、これから誕生会でもするようです。

羽根木・梅祭り父兄の一人が会の挨拶をしはじめましたが、テーブルに座った子供たちは目の前においしそうなケーキがあっては落ち着きません。
写真の女の子はとうとう待ちきれずケーキの上のイチゴに手を伸ばしました。左利きなのか、左手でつまみ食いをするのがかわいいですね。それを見て他の子も・・・・。

羽根木・梅祭り 公園の一角にはかなり広い広場があり、そこにテント張りの出店が軒を連ねていて焼きそば、おでんなどをお客に供しています。
ふと横を見ると、4歳ぐらいのお嬢ちゃんが自分の頭より大きい綿あめに果敢にチャレンジしていました。そばにいたお母さんのご了承を得て写真を撮らせていただきました。


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(2018/03/19(月) 06:22)

 姉妹ウェブサイト「実りのとき」の新URL
姉妹ウェブサイト「実りのとき」

 いつも本ブログサイト 「憩いのとき」 をご覧くださいまして、有難うございます。

私はこのブログを含めて多数のウェブサイト、ブログサイトを運営していますが、このたびそれら姉妹ウェブサイトの一つ 「実りのとき」 のサーバーを移転しました。

それに伴って ウェブサイト 「実りのとき」 のURL(アドレス)が次のように変更されました。

  旧 http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/

  新 http://tokyoweb.sakura.ne.jp/minori/

上記新URLをクリックすると、 「実りのとき」 の新ウェブサイトに移動します。

移動後、本ウェブサイト 「実りのとき」 のブックマークを更新してください。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

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(2018/03/17(土) 10:00)

 中川一政美術館 (2)
中川一政美術館 太平洋戦争後の1949年、当時56歳の中川一政画伯はこの温暖の地 真鶴町にアトリエを構えました。
真鶴漁港近くの福浦の景観に感銘を受け、福浦の風景画を多数制作しました。

以降20年にわたり、中川画伯は真鶴のアトリエを拠点に真鶴、箱根や桜島などの風景画を多数描きました。

 1967年、74歳になったころから、中川画伯は箱根に滞在して駒ケ岳などの風景画を制作することが多くなりました。

90歳になったころから、中川さんは箱根を去って真鶴のアトリエでの創作に没頭するようになりました。中川さんは、90歳に近いころまで、重いイーゼルをかついで真鶴や箱根の景色を写生するために出かけられたということです。

またアトリエで「薔薇」や「向日葵」、孫をモデルにした人物画などを多く描きました。

中川一政美術館

 1989年、画伯が06歳のとき、真鶴町立中川一政美術館が開館しました。館内には画伯から寄贈された絵画、書、色紙などを多数展示しています。

中川画伯は1991年に98歳の天寿を全うして没しました。その後、町立中川一政美術館に隣接するお林展望公園にある管理棟内に、故中川一政画伯のアトリエの内部が復元され、一般に公開されるようになりました(上の写真、下の写真)。

中川一政美術館

中川一政美術館 復元されたアトリエは、画伯のアトリエを実際に使われていたままに忠実に作ってあるそうです。
床には書きかけの絵が多数並べられており、パレットや画筆が机に置かれてありました。アトリエには暖房用の大きなストーブも設置されてありました。
中川絵画を鑑賞された後、こちらもご覧ください。 



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(2018/03/15(木) 06:58)

 新宿御苑 2月 (2)
新宿御苑 新宿御苑は、もともと主たる部分が鴨池、養魚池だったので、現在も大きな園池がいくつもあります。
日本庭園の東側に「上の池」があります。池の上に松の枝がかかり、池の水面に緑濃い松の枝の影が映っています。
池の岸辺を歩く人々も、水面の様子を見て声をあげて感嘆していました。

新宿御苑 左の写真の建物は、昭和3年に昭和天皇の御成婚を記念して建てられたビンナン建築様式の東屋です。
当時は台湾は日本の領土で在住邦人が多数いましたが、それらの人々から贈られたものだそうです。

屋根の上やすその部分が尖って反り返っているのがエクゾティックですね。

新宿御苑 左の写真は日本庭園の東側上の池にかかっている優雅な太鼓橋です。
池の中には睡蓮などの水草が植えられていますが、今はみな枯れて水面にわずか顔を出しているだけです。
橋の向こうには桜の木がたくさん植えられていますが、あと1ヶ月あまりで満開になり花見客で賑わうでしょう。

新宿御苑 西洋庭園の北側には「中の池」、「下の池」があります。冬のシーズンには、岸辺の木々が葉を落とし、また池の水面には水草がなくなります。
そこで、風がないときには左の写真のように岸辺の木立が池の面にみごとに逆さに映されます。まるで、木々が池の中に逆さに立っているようですね。

新宿御苑 御苑内のどの池にも、たくさんの水鳥が遊弋しています。東京には、シベリアなど北方から渡ってきて冬を越す水鳥が多いそうです。この池にいる鳥もそれらの仲間でしょうか。
普通渡り鳥は春先にはまた北方に帰って行きますが、東京はえさが豊富にあるので北方に帰らずそのまま居続ける鳥も多いとか。


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(2018/03/13(火) 07:17)

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