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 ボストン ・ 戦没者慰霊碑
 現在のボストン市街を東西に貫いて流れるチャールス川の南岸は、昔はチャールス川の大きな支流が合流する場所で、広大な沼沢地、湿地帯が広がっていました。

19世紀中ごろ、その沼沢地を埋立てて、宅地と親水公園などオープンスペースを計画的に造成する大プロジェクトが始まりました。

バックベイ・フェン

 そうしてできた公園バックベイ・フェンは、バックベイ地区の西側から北を流れる大河チャールス川に向かって伸びています。公園内には多くの池があり、ボストン市民が水に親しむ憩いの場となっています。

公園バックベイ・フェン内の一角にある広場に、記念碑や銅像がたくさん置かれているのを目にしました。近寄ると、過去のいくつかの大戦争でなくなったボストン市民の慰霊碑のようでした。

下の写真は第二次世界大戦で亡くなったボストン市民を悼む慰霊碑で、半円形の石の壁がめぐらされた前に高い慰霊塔が立っており、そこに大きな翼をもつ天使のブロンズ像が置かれていました。

バックベイ・フェン

 上記慰霊碑の近くに大きな門型の石碑が秋の強い陽光を浴びて立っていました(下の写真)。白い石碑の上部には、大きな文字で "KOREA 1950-1954" と書かれていました。

第二次世界大戦終了後、朝鮮半島は南北に分割され、北部はソ連、中国の支援のもとに社会主義国家となりました。その後まもなく1950年に、北朝鮮は国境を越えて南の大韓民国に侵攻しました。

アメリカ合衆国は大韓民国を支援して参戦し、多くのアメリカ兵が朝鮮半島の過酷な戦いで命を落としました。この慰霊碑は、ボストン地域から朝鮮戦争に出征し、戦没した皆さんを弔うものです。

バックベイ・フェン

 上記朝鮮戦争慰霊碑のとなりには、やはり大きな門型の石碑が立っていました(下の写真)。石碑の上部には、大きな文字で "VIETNAM 1962-1975" と書かれていました。

1962年から始まったヴェトナム戦争での戦死者の慰霊碑です。この碑に刻まれているとおり、ヴェトナム戦争は1962年から結局13年の長きに渡って続き、アメリカ国内では大規模な反戦運動が起こって社会問題化しました。

バックベイ・フェン

 ボストンの緯度は日本ではほぼ北海道中央部にあたり、冬季の寒さは大変厳しいということです。秋の訪れも東京より2ヶ月ほども早いようで、バックベイ・フェン内の木々はかなり黄葉が進んでいました。

下の写真の木々のうち、中央にあるのは北米に多いユリノキと思われる落葉樹です。大きな木全体が鮮やかなオレンジ色に染まっり、ニューイングランドの秋の陽を浴びて輝いていました。

バックベイ・フェンは池の多い親水公園なので、水辺を好む柳の木がほうぼうにありました。大きく垂れさがる柳の枝も、やはりご覧のようにかなり黄ばんできて、木の下には落ち葉が散り敷いていました。

バックベイ・フェン



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(2017/02/28(火) 07:36)

 プリンターの黒色カートリッジ
 私は、しばらくHP社のインクジェットプリンターを使ってきましたが、数日前に文書を印刷したところ、印刷した黒い文字がかすれているのに気がつきました。

プリンターのコントロールパネルを調べると、黒色を印刷するのに使う内蔵のインクが使い切ったようで、それを示す部分に黄色いアラームマークがついていました。

プリンターのふたを開けると、印刷に使う4つのインクのカートリッジが下図のように並んでいるのが見えました。それらの一番右側にあるのが黒インクのカートリッジのようです。

プリンター

 インクジェットプリンターでカラー印刷を行う場合は、シアン(C)・マゼンタ(M)・イエロー(Y)の3色のインクを混ぜて他の色を表現する減色法(減法混合)が使われます。

それら3色を混ぜることで理論的には黒色になりますが、実際には印刷の品質に難があり、また3色のインクの使用量が多くなるという問題があるので、多くのプリンターでは文書など黒色印刷用に専用の黒色インクを利用する方式をとっています。

私が使っている上記HP社のプリンターでは、シアン(C)・マゼンタ(M)・イエロー(Y)の3色は染料インクを使い、黒色は印刷の耐久性に優れる顔料のインクを使っています。

リモコン 私はこのプリンターではほとんど文書を印刷するだけなので、黒色インクがカラーインクより先に使い切ったのです。

このプリンターのマニュアルを調べると、各色のカートリッジを別々に買うこともでき、黒色インクだけを補充するには "HP178" という専用カートリッジを購入するようにとありました。

 インタ-ネットで調べると、この 「純正インクカートリッジ」 は割高なので、大量に印刷する利用者はHP社以外のメーカーが販売する 「互換カートリッジ」 を購入する人が多いようです。

また、空になったカートリッジに同色のインクを補充することも可能で、そのための商品もいくつか販売されています。

しjかし、私はプリンターで印刷する量は多くないので、今回は上記純正インクカートリッジを購入することにしました。

インターネットでこのHP社純正インクカートリッジを980円で安売りしているところを見つけました。しかし、それを宅急便で送ってくるので、送料が490円かかるというのです。送料が少々高く感じましたが、しかたなくそれを購入しました。

リモコン 楽天のポイントで決済したその翌日のお昼ごろ、インクカートリッジが送られてきたので、さっそくプリンターに装着しました。
HP社純正インクカートリッジのインクの出口はスポンジがついていて、写真のようにオレンジ色のふたで密封されていました。

リモコン そのふたを外してカートリッジをプリンターに装着すると、プリンターはそれをを認識してセッティングを始めました。

カートリッジにはICチップがつけられており、カートリッジ内のインクの量などが調べられます。

 しばらくしてプリンターのコントロールパネルに新しいカートリッジが使えるようになった旨の表示がありました。コントロールパネルからインクのレベルを調べると、上図のように黒色を印刷するのに使うインクが満タンになったのがわかりました。

黒色以外のカラーインクは上の写真に見られるように残量が少ないですが、このプリンターではカラー印刷はほとんどしないので、とりあえずはこれでOKとしましょう。



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(2017/02/26(日) 07:29)

 新宿区立夏目漱石公園 (2)
 明治40年に、当時40歳だった漱石は神楽坂の借家(現在の早稲田南町)に転居しました。漱石は、亡くなるまでの9年間をそこで過ごし、『それから』、『門』 など晩年の名作を執筆しました。

太平洋戦争末期の1945年にこの家は戦災で焼失し、現在ではその跡地が 「新宿区立漱石公園」 となっています。

漱石公園の中には 「夏目漱石終焉の地」 というプレートが置かれており、もとここにあった漱石の家 「漱石山房」 やそこに出入りした人々について記述しています。

漱石公園

 公園の中には漱石の銅像が置かれていますが、その基部に下の写真の銅製プレートが埋め込まれていました。
「天に則(のっと)り私を去る」 という漱石自身の造語だそうです。

漱石公園 「 則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと、「 去私」は私心を捨て去ることを意味します。

一生自我の超克に悩んだ夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉といわれます。

漱石晩年の宗教的な悟りを意味すると同時に、自らの創作についての文学観とも解されています。

漱石公園 漱石の銅像の近くに石の搭が立っていて、その一面に漱石の俳句のパネルがはってありました。
「人よりも空、語よりも黙」と前書きがあって、次の俳句が記されていました。漱石自身の短冊を写したものということです。

  肩に来て
  人なつかしや
  赤蜻蛉   漱石

 夏目漱石の141回目の誕生日にあたる平成20年2月9日に、新宿区立漱石公園がリニューアルオープンしました。
その際に、公園の中ほどに漱石の没後遺族が家に飼っていた小鳥や犬・猫の供養のために建てた 「猫塚」 が置かれました。

漱石公園 「猫塚」は、左の写真のように平たい石を積み重ねた構造でした。漱石や鏡子夫人はこの家で犬、猫、小鳥などを飼ってきました。
特に 『我輩は猫である』 の猫のために建てたのではないそうです。漱石の短編小説 『文鳥』 は、漱石が飼った白文鳥が死ぬまでのストーリーです。その文鳥も、この塚の下に葬られたのでしょうか。

漱石公園 漱石が住んだ漱石山房には白ペンキで塗装されたベランダ回廊がありました。漱石は天気の良い日にはそのベランダに出て庭を見渡しながらくつろいだそうで、その様子を撮影した写真が 「道草庵」 の中に掲示してありました。
平成20年の漱石公園がリニューアルの際に、漱石山房のベランダ回廊が公園内に復元されました。



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(2017/02/24(金) 07:30)

 豪徳寺 ・ 招猫堂
 天下分け目の関ケ原の戦で軍功をあげた彦根井伊家は、その後江戸・世田谷にも領地を与えられました。当時の井伊家の殿様井伊掃部頭直孝は、その世田谷領でよく鷹狩を楽しんだそうです。

ある日、井伊直孝公が鷹狩から帰る途中、世田谷領の豪徳寺というあばら寺の前にさしかかったとき、門前に猫が一匹うずくまってしきりに片足をあげて殿様一行を招きました。

Windows10 井伊直孝公はその猫が自分たちを招く様子を不思議に思いましたが、ちょうど少々疲れた折でもあり、猫の招きに応じてその寺に立ち寄って休息しました。

豪徳寺の本堂に入って和尚からお茶をもらって休んでいたところ、すぐに空は黒雲で閉ざされて夕立が激しく降り始め、雷鳴がとどろきました。

 豪徳寺の和尚さんの愛猫に招かれたおかげで雷雨を避けることができた井伊の殿様は、その後当時荒れほうだいになっていた豪徳寺に寄進をして堂宇を復興させ、やがて当寺を井伊家の江戸菩提所に指定するに至りました。

豪徳寺の山門から入ったところに仏殿というお堂がありますが、その正面左側に 「招猫堂」 と呼ばれる小さなお堂があります。幸運を招いてくれるという招き猫を祀ったお堂です。

Windows10

Windows10 招き猫ルーツのこの猫ちゃんが死んだ後、和尚は猫の墓を建てて懇ろに葬tってあげました。やがてその墓の上に上記のお堂招猫堂が建てられました。

この中には 「招猫観音」 が祀られており、「崇め祈れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁盛、心願成就す」 というご利益があるそうです。

 後世、豪徳寺ではこの猫の姿形をつくり、招福猫児(まねぎねこ)と称えて現在に至っています。豪徳寺境内にある寺務所ではさまざまなサイズの招き猫ちゃんを販売しており、幸運を願う人々がそれらを盛んに買い求めています。

招猫堂の横に小さな祠がありますが、招き猫になにか願をかけ、それが幸いにも成就した場合、その招き猫の姿形をその祠に返納すると、さらにご利益があるとされます。

当寺の招き猫はさすがに霊験あらたかと見えて、この祠にはいつも祈願成就の招き猫ちゃんがたくさん返納されています。

Windows10

 招猫堂の横には願掛けの絵馬を納める場所があり、いつもたくさんの絵馬がかかっています。他人がかけた絵馬ですが、ちらちらと見るとなかなか面白いものがあります。

下の絵馬は、「おかげさまで無事に就職できました」 というお礼が書かれていました。猫好きのご一家で2匹の猫を飼っているようで、それら2匹の猫ちゃんの足形を絵馬の上にプリントしてありました (^.^)

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(2017/02/22(水) 07:36)

 春節の舞い
 春節とは陰暦の新年のことで、中国やベトナムなどでは年間でもっとも賑わう祭日です。その日には、中国の人々は「新年好(シンニェンハオ)」と挨拶を交し合い、新しき年の到来を祝います。
また、最近では、私ども日本人の間でも春節に対する関心が次第に大きくなってきました。

Windows10

 春節は毎年日程が異なり、本2017年は上図のポスターにあるように1月27日が旧暦の大晦日、1月28日が春節です。1月27日(除夕)~2月2日の7日間が春節の連休となるそうです。

東京では、最近中国人が多くなるにつれ、この時期には 「新年好」 という挨拶が方々で盛んに聞かれるようになりました。

一月の末に、近くの公園の広場で、2枚の紅い扇を持って舞っている中国人女性を見かけました。確か、この人は、去年の新年にもこの公園でやはり紅い扇を持って踊っていたと思い出しました。

Windows10

Windows10 その女性に近寄って「ニーハオ」と声をかけたところ、「コンニチワ」 と挨拶が返ってきました。
この人はかなり日本語ができるようです。

話を聞くと、中国上海出身の人で、この近くの事業所で働いているそうです。そのような中国人の皆さんが、故国を懐かしんで春節を祝っているのでしょう。

Windows10 左は、昨年の春節の時期にこの女性がやはり紅い扇を持って踊っていたのを撮影した写真です。

女性が着ているのは、普通の街着のようです。

本年の春節では、上の写真に見られるように、春節を祝う服装をして踊っていました。本年の春節は、なにか特別なのでしょうか。



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(2017/02/20(月) 06:51)

 Windows10の背景色
 パソコンのOSを普通にWindows10 にアップデートした場合には、濃い青色のデスクトップ画面が表示されます。

デスクトップ画面は、文字通り、自分がパソコンを使って仕事をしていくための作業机の天板です。その上には白主体のアプリケーションソフトの画面や各種アイコン類、写真など画像などが多数置かれます。

パソコンを使うユーザーにより好みは様々ですが、私はデスクトップ画面はなるべくシンプルな単色のほうが落ち着いていろいろな仕事を進められると思います。

その単色のデスクトップ画面も人によってさまざまな好みがあり、中には黒や紺色など非常に暗い色を使う人もいます。しかし、そのような濃い色のデスクトップ画面は、白主体のアプリケーションソフトの画面とのコントラストが強く、長時間使っていると目が非常に疲れるものです。

デスクトップ画面上で写真画像などを編集する際に色調を確認するためにも、やや薄めの灰色がデスクトップ画面の背景色としてもっとも適していると思うのですが、いかがでしょうか。

Windows10 Windows10でデスクトップ画面の設定をするには、まず、デスクトップ画面上のなにもないところでマウスを右クリックし、現れたメニューから 「個人用設定」 を選択します。

Windows10では自分の好みのデスクトップ画面設定を 「マイテーマ」 として保存できますが、そのためには左の画面の 「未保存のテーマ」 についてさまざまな設定を行います。

Windows10 上図マイテーマの画面の下にある 「色」 というボタンを押すと、デスクトップ画面に利用できる単色の一覧表が表示されます。

それらの中からどれか一つを選択して利用すればよいのですが、なぜか、その一覧表の中には私が希望する明るめの無彩色がなく濃い色ばかりなのです(左の写真)。

 これまで私が利用してきた Windows OS では、デスクトップ単色のリストに希望する色がない場合には 「その他の色」 というようなボタンがあってそれをクリックすると色を設定する画面が現れました。

ところが、このWindows10では、ユーザーがそのようなデスクトップ単色を自由に設定する画面が表示されないのです。なんというお粗末さでしょうか。今回はWindows10 がマイクロソフト社から無料で配布されたので、不自由さがあるのもしょうがないというところでしょうか。

少しインターネットを検索すると、実はWindows10 にもこれまでのWindowsと同じようにデスクトップ単色を自由に設定するプログラムがインストールされているのを知りました。

そのプログラムに直接アクセスすれば、これまでのWindowsと同じように色彩設定の画面が表示されるというのです。

そのためには、まずデスクトップ画面左下のスタートボタンを右クリックし、 「ファイル名を指定して実行」 を選択します。現れた画面で 「名前」 という枠に

control /name Microsoft.Personalization /page pageWallpaper

という文字列をコピーペーストし、OKボタンをクリックします。

Windows10

 すると、下に示すデスクトップ単色を選択する画面が表示されますが、その下には 「その他の色」 という四角いボタンが現れました。これが、これまでのWindowsでデスクトップ単色を自由に選択するのに使ってきたボタンです。

Windows10

 さっそくその「その他の色」ボタンをクリックすると、これまでのWindowsで使ってきた 「色の設定」 の画面が表示されました。Windows10では基本色が24通りしかかりませんでしたが、この画面では48通りの選択が可能となり、私が希望する明るい灰色もその中に入っています。

その48通りの基本色の右側にある設定画面を使えば、より細かなデスクトップ単色の設定が可能です。

このようにしてWindows10でも自分の希望するデスクトップ単色を背景色として利用できるようになりましたが、マイクロソフト社はユーザーにこのような無用な苦労をさせるつもりでしょうか。

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(2017/02/18(土) 06:48)

 ボストン / バックベイ・フェン (2)
 アメリカ東部の大都市ボストンでは、19世紀の中ごろには各方面の工業化が進展し、つれて商業なども盛んになりました。それを見て、アメリカ内外からボストンに移入する人々が増加しました。

大西洋を隔てたアイルランドでは1840年代にジャガイモ飢饉と呼ばれる飢饉が起こり、多くの難民が生き残りをかけてアメリカに向かいました。ボストンにも10万人のアイルランド移民がきたといわれます。

そのアイルランド移民の中には、故ジョン・F・ケネディ大統領の曽祖父がいたということです。アイルランド移民たちは、ボストン港湾地区の倉庫などに住み、悲惨な生活を送ったといわれます。

現在のボストン市街を東西に貫いて流れるチャールス川の南岸は、当時はチャールス川の大きな支流が合流する場所で、広大な沼沢地、湿地帯が広がっていました。

奥多摩

 その沼沢地を埋立てて、急増するボストン市の人口に対応する住宅地を建設しようというプロジェクトが19世紀中ごろから始まりました。

この時期には、ニューヨークの中心マンハッタン島では、市街地の中央部に「セントラルパーク」を建設するプロジェクトがスタートしました。中西部のクリーブランドなど他のアメリカの大都市でも、そのような近代的な市街を建設する運動が盛んになりました。

1861年に南北戦争が勃発し、ボストンのバックベイ埋め立てプロジェクトも一時停滞しましたが、1865年に南北戦争が終結すると、工事はふたたび力強く進展しました。

奥多摩

 バックベイ埋立てプロジェクトは、,マサチューセッツ州政府が中心となって1855年に設立したバックベイ委員会によって推進されました。

プロジェクトは発足当初から宅地開発と親水公園などオープンスペースを計画的に造成する方針をとっており、その後のアメリカ各地の都市建設に大きな影響を与えたとされます。

州政府が主導するバックベイ委員会のもと、翌1856年には州政府、ボストン市,民間企業間の埋立後の土地の分配についての協議が成立し、住宅建設などの事業が始まりました。アメリカ独立百周年にあたる1876年には、この地区にボストン美術館が開館しました。

奥多摩

 現在では、親水公園を含むバックベイ地区はアメリカを代表する高級住宅地となり、ボストン美術館、ボストンシンフォニーホールや多くの大学もある文化地域としても有名です。

親水公園バックベイ・フェンは、バックベイ地区の西側から北を流れる大河チャールス川に向かって伸びています。公園には多くの池がありますが、上の写真はマガモと思われる水鳥です。頭が緑色の鳥がマガモのオスだそうです。

下の写真のリスも、ほうぼうで見かけました。美術館からバックベイ・フェンにかけては、しいの木の類が多く、地面にどんぐりが多数落ちていましたが、ここのリスくんたちもどんぐりを主食にしているようです。

奥多摩

 親水公園バックベイ・フェンの中をしばらく歩いていて、遠くになにか青銅の鐘のようなものが置いてあるのを見つけました。近づいてみると、なんと日本の寺院にある梵鐘のようでした。

そのあたりにはなにも説明板のようなものはなく、この梵鐘がここに置かれている理由はわかりませんでした。この近くにある岡倉天心を記念した日本庭園 「天心園」 となにか関係があるのでしょうか。

奥多摩



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(2017/02/16(木) 07:15)

 テレビリモコンの不具合
 私どもの家では、地上デジタルテレビ放送と衛星放送(BS)が受信できる液晶テレビを6年あまりにわたって使用しています。

そのテレビは、下の写真のリモコンで地デジ/BSの切り替え、チャンネルの選択、録画操作などが手元でできるようになっています。

テレビリモコンのボタンはゴムのような柔らかい素材でできており、そのボタンでリモコン内部にある基板の接点を動作させるようです。

リモコン

 このテレビを使い始めてから数年たったころから、リモコンの動作がおかしくなってきました。リモコンのボタンを押しても全く反応しなかったり、リモコンのレスポスが遅くて反応するまでしばらく押し続けなければならないというような状況になりました。

時には、リモコンのボタンをたとえばチャンネル変更などのために一度押すと、その動作が勝手に3回くらいも続いてチャンネルが次々に変わるようなこともありました。

リモコン このリモコンのボタンは一つ一つリモコンパネルに設けられた孔に別々に挿入された構造になっています。そのボタンの一つをピンセットで取り出して見ると、左の写真のようにボタンの反対側には二つの電極が作られていました。
電極の物質は金属ではなく、カーボンと思われる黒い物質でした。

 リモコンのボタンを押すと、上記のカーボン電極がリモコン基板の接点に接触して動作させると思われます。インタ-ネットを検索すると、このボタン側のカーボン電極を接点復活剤で清掃するとリモコンが正常に動作するようになったという報告がありました。

また、ボタン側カーボン電極の上にアルミ箔を両面テープで貼りつけたところ、リモコンが正常に効くようになったという報告もありました。

リモコン 私の使っているリモコンでは、パネル面のボタンを取り外すとその下に対応するリモコン基板の金属接点が見えました。
それを接点復活剤で清掃すると効果があるというネット報告もありました。

リモコンによっては、表面のパネルを取り外すとリモコン基板の接点がすべて見えるものもあるそうです。

リモコン 今回の私の場合は、まずは正常に動作しないボタンを取り外してその裏にあるカーボン電極とその下に見えるリモコン基板の接点を接点復活剤をつけた綿棒で清掃してみましたが、結果はほとんど効果はありませんでした。

取り外したボタンの裏にあるカーボン電極が損傷しているのかもしれません。

 私が使っているリモコンパネルの上部を見ると、白いボタンが4つ並んでおり、その左端が地デジ、その隣がBSのボタンでした。現在はその二つのボタンが正常に動作していません。

それらの右側には 「CS」 などほかの放送に対応するボタンが二つ並んでいますが、私の家ではそれらは契約していないので、まったく使っていません。それらのボタンは大きさは地デジ、その隣がBSのボタンと同じなので、入れ替えることができます。

試しにそれらのうちの一つを地デジのボタンと入れ替えたところ、地デジを正常に選択できるようになりました。それに力を得てBSのボタンも未使用のボタンと入れ替えると、BSを正常に選択できるようになりました。

この結果、ボタンの表面の文字はまるで違う放送に対応することになりましたが、なれれば別に問題ありません。しばらくはこのように交換したボタンでリモコンを使ってゆこうと思います。


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(2017/02/14(火) 06:48)

 新宿区立夏目漱石公園
 夏目漱石は、生涯の大部分を東京ですごした江戸っ子作家でした。生まれたのも死んだのも東京で、お墓も東京・雑司が谷にあります。

現在でも東京の方々に漱石に関係のある土地・建物が残っており、私ども文学ファンが漱石の跡をたどることができます。

漱石の父は旧東京市西部の神楽坂界隈の名主だったそうで、漱石(金之助)もその地で生まれました。下の地図に見られるようにこの地区には漱石の父の名をとった 「夏目坂」 という通りが残っています。

奥多摩

 明治40年に、当時40歳だった漱石は神楽坂の借家(現在の早稲田南町)に転居しました。漱石は、亡くなるまでの9年間をそこで過ごし、『それから』、『門』 など晩年の名作を執筆しました。

芥川龍之介など漱石門下の作家をはじめ、芸術家などが多数訪れたこの家は、やがて「漱石山房」と呼ばれるようになりました。

しかし、太平洋戦争末期の1945年にこの家は戦災で焼失し、現在ではその跡地が新宿区立漱石公園となっています(下図)。

奥多摩

 漱石は、生涯自分の家を持たず、借家に住みました。40歳になった漱石は、自分の生地に近いこの場所に住もうと思ったのでしょうか。

その神楽坂の借家は敷地340坪というかなりの大きさでした。その一部が昭和51年(1976年)に新宿区立漱石公園として開園しました。

奥多摩

漱石の跡 漱石公園の入口の前には、夏目漱石の銅像が建てられていました。

富永直樹さんという彫刻家が制作した胸像で、平成3年に建立されたということです(左の写真)。

漱石は1916年(大正5年)に49歳でこの世を去りましたが、この胸像は漱石の晩年の姿を描いたものでしょうか。

 公園入口から少し歩くと、「道草庵」という小さな平屋の建物があります。漱石や漱石山房に関連する資料やパネルを展示しています。「道草庵」 の名は、漱石の最晩年の自伝的小説からとったものです。

公園入口から道草庵に至る通路には、もと漱石山房にあった擁壁の石材(房州石)が使わているとのことです。

奥多摩



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(2017/02/12(日) 07:19)

 奥多摩・氷川キャンプ場
 奥多摩の吉川英治記念館を訪ねたのち、多摩川の渓谷に出て川筋を下り始めました。1時間ほども歩いたあたりに、梅岩寺という真言宗の古刹があったので、境内を見せていただきました。

その後、昭和橋という大きな橋を渡ってから、川の左側の岸を下流の方向に歩きました。有名な吉野梅郷はもっと下流の日向和田駅の近くですが、現在歩いている周辺も梅の産地として知られています。

それらの梅林も、この時期は下の写真に見られるように葉が一枚もなくなり、静かに来年の春を待っています。

奥多摩

 私どもが行ったのは秋も終わりのことで、午後3時ごろには早くも日が西に傾いて梅林の周りの山にかかってきました。それにつれ、深秋の山の冷気が川筋を下る私どもの身にしみて感じられました。

まもなく、私どもが歩く道から下がった川筋に氷川キャンプ場が見えてきました。氷川キャンプ場は、多摩川沿いのキャンプ場の中で最も規模が大きく、各種設備も整っているそうです。

ここで一休みし、川辺に下りて渓谷の紅葉を見渡しました。渓流の水面で陽光が反射して、岸の紅葉をあかあかと照らします。

奥多摩

 この辺は、川原で火をたいて煮炊きをしてもよい場所が多いようです。ここでは、年配のご夫婦が河原の石を組み合わせて炉をつくり、近くのスーパーででも買ってきたのでしょうか、ソーセージや野菜をジュージューと焼いておいしそうに食べていらっしゃいました。

私どもはいい匂いに惹かれてその近くに行き、ご了承をいただいてから、この写真をとらせていただきました。この絶景の中、バーベキューの味もひとしおでしょう。

奥多摩

 この河原に立つと、さきほど奥多摩駅側から渡ってきた昭和橋が遠望できました。橋を渡っているときは気がつかなかったのですが、昭和橋はこのような美しいアーチ形をしていたのがわかりました。

ときどき川の上流からカヌーが漕いできて、その昭和橋のアーチをくぐって下流のほうに消えて行きます。

昭和橋の向こうには奥多摩の山々が見えますが、全体に秋色がこくなり、夏とは違う華やかな表情を見せています。

奥多摩

 氷川キャンプ場をあとにして、また川筋の道路に戻って青梅線の一つ下流の白丸駅をめざして歩いて行きました。

このあたりは、川筋にも山にも桜やかえでなど真紅に紅葉する樹種が少ないので、橙色や赤褐色の秋景色となります。その中で、ときどき真っ赤に見えるのはウルシの紅葉でしょう。

しばらく多摩川下流に向かって右側の川岸を歩きますが、その川岸も沢が入り組んでいるため、下って行く道筋は川の流れから遠くなったりすぐそばになったりします。

奥多摩



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(2017/02/10(金) 06:41)

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