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 Windows10のスタート画面
 ヤフオク!で1万円で落札したパソコンは、まずはWindows7で各種アプリケーションをインストールして仕事に使えるようになりました。

次いで、マイクロソフト社の無料アップグレードサービスを利用して、このパソコンを Windows7 から Windows 10 にアップデートしました。

普通にWindows 10 にアップデートした場合には、下図のような青い大きなスタート画面が全画面で表示されます。スタート画面の主たる部分は、「タイル」 と称する四角い要素で構成されています。

Windows10

 タイルをクリックすると、さまざまなアプリケーションソフトを起動したり、インターネット上のサービスに接続したりできます。

しかし、それらはあらかたがマイクロソフト社の商品や同社の有料サービスで、私どもにとっては余計なお世話です。今回はWindows10 がマイクロソフト社から無料で配布されたので、このようなPRが表示されるのもしょうがないというところでしょうか。

ともかくパソコンの大事なデスクトップをこのようなものに占拠されては困るので、メニュー画面のタイルはすべて削除しましょう。

タイルの上で右クリックすると下図のようなメニューが表示されるので、「スタート画面からピン留めを外す」 を選択します。

Windows10

 そのタイルのリンク先が今後もまず使用しないと思われたら、上図メニューで 「アンインストール」 を選択してください。

タイルを削除したのち、スタート画面に無駄な空きスペースができたら、スタート画面の右端・境界線にマウスをあて、左方向にドラッグしてスタート画面の横幅を狭くしましょう。

私はこれまでさまざまなOS(パソコンの基本ソフトウェア)を使用してきましたが、それらの中でこのWindows 10 はデスクトップのデザインの面ではもっとも使いにくいように思われます。今後のヴァージョンアップの際にデスクトップ画面の改良を進めていただきたいと思います。

パソコンのパワーユーザーの間では、昔のWindows XP のシンプルなデスクトップ画面を高く評価する向きが多いようです。
そのようなユーザーのために、"Classic Shell" というフリーソフトが開発されています。このソフトを使えば、Windows10ののスタート画面をWindows7のスタートメニュー風にカスタマイズすることができます。

Windows10

 私はこれまでWindowsVistaでもWindows7でもこのClassic Shellを用いてデスクトップ画面をカスタマイズしてきました。今回のWindows10でも、まずこのClassic Shellをインストールしておいてからデスクトップ画面をカスタマイズしようと思います。



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(2017/01/31(火) 07:24)

 ボンバルディア機、オーバーラン
 現在から10年近く前の2007年3月13日、大阪国際空港発の全日本空輸運航ボンバルディアDHC-8-Q402が高知空港で着陸態勢に入ったところ、前脚の着陸装置が故障しているのが判明しました。

同機の機長は、やむを得ず、前脚が下りないまま滑走路に胴体着陸を強行しました。この事件は、当時テレビで生中継放映され、多くの視聴者が同機が機首部を滑走路に接触させ、火花を散らしながら滑走する様子を見つめました。

幸いにも、同機機長の冷静な操縦により、乗客・乗員はみな無事で滑走路上に停止したボンバルディア機から救出されました。

東大構内・三四郎

 ボンバルディアDHC-8機は、デ・ハビランド・カナダ社が製造する双発ターボプロップ旅客機です。短中距離のフライトではジェット機に匹敵するスピードが出るので、比較的短距離の路線を運航するコミューター機として多く利用されています。

上記高知空港での事故の前後、ボンバルディア機は、世界各国で着陸時に主脚が折れるなどの事故が多発して大問題となり、世界中で全面的に運休して徹底的な検査が行われました。

私どもは、数年前、オーストリア旅行に出かけ、ウィーン空港でザルツブルグ行きの中型飛行機に乗り換えました。そのときの飛行機がこのボンバルディアDHC-8機だったので少々不安に感じたのを記憶しています(下の写真)。

東大構内・三四郎

 その後、私どもは、アメリカ東部の旅行に出かけ、ボストン空港でニューヨーク行きの中型飛行機に乗り換えました。そのときの飛行機も、やはりボンバルディアDHC-8機でした(下の写真)。

同機は、離着陸性能に優れ、また燃料消費が少なく排ガス放出も大幅に削減される環境に優しい旅客機とされます。

距離500㎞ほどのフライトならジェット機と同等の性能があり、航続距離は2100㎞もあるので、上記の例のように大阪 - 高知を無給油で往復するというようなフライトに多く利用されています。

東大構内・三四郎

 2017年1月19日正午ごろ、千歳市の新千歳空港で、秋田発新千歳行きの全日空1831便ボンバルディアDHC-8-Q400(乗客21人、乗員4人)が着陸後に滑走路を外れ、積雪の中で止まりました。

同機は滑走路に南側から着陸した後、誘導路に入る際に曲がりきれず、雪に突っ込んで動けなくなったとみられます。

なにかとニュースになることの多いボンバルディアDHC-8機ですが、世界中で運行実績のある優れた短距離旅客機だったはずです。しっかりと原因を調査して、今後は私どもが安心して乗れるようにしてもらいたいと思います。

東大構内・三四郎



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(2017/01/29(日) 06:41)

 東大構内 ・三四郎
 明治29(1896)年、夏目漱石は、第五高等学校の英語科教授として熊本に赴任しました。その後、漱石は、1900年に文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられ、ロンドンに向かいました。

漱石は、1903年1月にロンドンから東京に戻り、3月に現在 「猫の家」 として知られる本郷区駒込千駄木の貸家に引越しました。

現在は、その 「猫の家」 は、愛知県犬山市の野外博物館 「明治村」 に移建されています。下の写真に見られるように平屋建ての和風住宅で、小説 『吾輩は猫である』 に描かれている当時の中流家庭の暮らしを彷彿させる建物です。

東大構内・三四郎

 小説 『吾輩は猫である』 をきっかけに文筆活動をはじめた漱石は、まもなく東京帝大の英語教師の職を辞し、朝日新聞の嘱託社員になって本格的に小説を書き始めました。

1908年(明治41年)に書かれた小説 『三四郎』 では、主人公小川三四郎は、漱石が約4年間を過ごした熊本の五高を卒業して東京に出てきたという設定になっています。

小説 『三四郎』 中には、三四郎は東京に来て当時街鉄と呼ばれた市電に乗り、 「電車がちんちん鳴るので驚いた」 と書かれています。

東大構内・三四郎

 その街鉄に乗って、三四郎は自分が通う東京帝大を訪れました。当時の東京帝大ではまだ現在正門と呼ばれている門がなく、正門の向かって右側、本郷三丁目寄りにある「赤門」を利用していました。

現在の東大本郷キャンパスは、江戸時代は加賀藩前田家の上屋敷でした。徳川十一代将軍家斉の娘が前田家に嫁いでくる際に、前田家がこの上屋敷に赤門を建てました。

小説 『三四郎』 では、三四郎がこの赤門を通って東大構内に入り、漱石の小説が世に出た後に三四郎池と呼ばれるようになった池の周りを散歩したと書かれています。

東大構内・三四郎

 東京帝大図書館は1892年(明治25年)に煉瓦造りの旧図書館棟が完成しました。増加する図書の保存スペース狭隘化に対処するため、1907年(明治40年)には書庫の増設が行われました。

小説 『三四郎』 の中には、東京帝大の図書館についての記述が何ヶ所もあります。
その翌日から三四郎は四十時間の講義をほとんど半分に減らしてしまった。そうして図書館にはいった。広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物であった。

東大構内・三四郎

 夏目漱石の小説 『吾輩は猫である』 で苦沙弥先生宅に集う多くの愛すべきキャラクタの中に、「水島寒月君」という人がいます。
寒月君は学問最高の府を一番で卒業した天下の秀才ということになっていますが、これは漱石の弟子でもあった物理学者寺田寅彦をモデルとしたといわれます。

寺田は、熊本第五高等学校を卒業後、上京して東京帝国大学理科大学に入学しました。その後、同大学助教授に就任し、ドイツ留学の後、同大学教授に昇格しました。

寺田寅彦に 「椎の影 蔽ひ尽して 池寒し」 という俳句があります。「大学校内の池にて水の温度を測る」 と前書が付いていました。構内の三四郎池で厳寒時の水温を測定したのでしょう。

東大構内・三四郎


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(2017/01/27(金) 06:46)

 青梅 ・梅岩寺
 奥多摩・吉野梅郷の吉川英治記念館を訪ねたのち、多摩川の渓谷に出て川筋を下り始めました。1時間ほども歩いたあたりに、梅岩寺という真言宗の古刹があったので、境内を見せていただきました。
奥多摩には 「多摩八十八ヶ所霊場」 があり、それに属する真言宗のお寺がかなりあるようです。

青梅 ・梅岩寺  お寺の入口には、幅広い石段が上に向かって伸びています。その上にある門が梅岩寺の山門で、こちら側が正面入口になっているようです。

山門の両側にはそれぞれ大きな仁王像が納められており、なかなか堂々たる造りでした。左の写真は、山門の右側の袖に納められている仁王様です。

青梅 ・梅岩寺  上の写真の仁王様は、口を開けてなにか叫んでいるような姿なので、「阿形像」 かと思われます。

左の写真は山門の左側の袖に納められている仁王様ですが、こちらは口を閉ざしているので 「吽(うん)形像」 なのでしょうか。
どちらもご覧のすさまじい姿で山門の両側をしっかりと固めていました。

 梅岩寺は、平安時代に弘法大師空海が開いた真言宗の豊山派に属するお寺で、多摩八十八ヶ所霊場の46番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の70番に当たるそうです。

梅岩寺は、近くにある金剛寺というお寺と縁が深いそうですが、その金剛寺の枝垂れ桜と姉妹樹といわれる枝垂れ桜が梅岩寺の境内に2本植えられています。入口近くにある大きな枝垂れ桜は、青梅市の天然記念物に指定されているそうです。

青梅 ・梅岩寺

 本堂の裏にまわると、山の斜面にかけて大きな墓所が広がっていました(上の写真)。あたりが冬枯れる中、山のすそ野には緑濃い松が多数植えられています。その松の緑をバックに、長い錫杖をついた地蔵様の白い石像が立っていました。

近寄ると、地蔵様は左の腕に小さな赤子を抱えていました。「水子地蔵」 の像のようです。

青梅 ・梅岩寺

 水子とは、生まれてあまり日のたたない子、あかごのことだそうです。現在では、胎児、特に流産または人工妊娠中絶により死亡した胎児を指すことが多くなっています。

最近では、地蔵様に託してこの水子の霊を祀ることが盛んに行なわれています。地蔵様は、子供を守る仏とされていたことから、水子の霊を祀る親の心と結びついたとされています。

青梅 ・梅岩寺



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(2017/01/25(水) 07:32)

 大衆魚の不漁続く
 サンマといえば秋の大衆魚の代表格で、9月ごろのシーズンには魚屋さんの店頭では一匹100円ぐらいで安売りされたものでした。その秋の味覚、サンマが私どもの食卓から次第に遠のきつつあります。

下図は、岩手県での年間サンマ漁獲量の推移を示すグラフです。サンマ漁獲量は長期的に減少の一途をたどっており、昨2016年の漁獲量は2008年の漁獲量の1/3にまで落ち込みました。

漁獲不振の原因は、海水温の上昇とも中国、韓国、台湾の漁船による乱獲ともいわれますが、現時点ではまだ判然とせず、漁獲不振の対策もとりようがないのが実情です。

マレーシア機

 サンマと並ぶ秋の味覚であるサケの漁獲量も、長期的に不振が続いています。下図は、北海道での年間サケ漁獲量の推移を示すグラフです。サケ漁獲量もご覧のように長期的に減少しつつあり、昨2016年の漁獲量は直近30年間の最低レベルにまで落ち込みました。

サンマ、サケともに漁獲量の激減につれて魚屋さんの店頭での販売価格が上昇しており、私ども消費者にとって買いづらくなっています。

マレーシア機

 漁獲量の減少は、サンマ、サケだけにとどまりません。最近では大衆魚の代表格であるアジも、長期間にわたって漁獲不振が続いており、魚屋さんの店頭に並ぶ量が少なくなっています。

私は自分で料理もしますが、アジはくせが少なく煮てよし、焼いてよし、フライよし、刺身はさらによしで、庶民の心強い味方です。

その大衆魚アジも、魚屋さんの店頭では形が次第に小さくなり、価格もだいぶ値上がりしています。アジの漁獲不振は解消しそうになく、アジの価格はさらに値上がりするとのことです。

マレーシア機

 つい数日前、またショッキングなニュースがテレビやインターネットで報道されました。本年度は太平洋のスルメイカ漁が深刻な不漁で、北海道東沖のイカ漁は市場によっては水揚げ量が昨年のわずか3パーセントにまで落ち込んでいるとのことです。

イカもアジと同じく煮てよし、焼いてよし、フライよし、刺身はさらによしで、私どもにとって重要な食材になっています。

例年はこの時期には長さ30㎝ぐらいの立派なイカが魚屋の店頭に並ぶものですが、この冬はそのようなイカはほとんど目にすることはありません。魚屋の親父さんも 「なにしろイカが市場に出てこないんで」 とお手上げの表情でした。

このような状況では、来年以降も大衆魚の不漁が続き、私どもの台所を直撃するかもしれません。事態が好転するのを祈るのみです。

マレーシア機



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(2017/01/23(月) 07:29)

 豪徳寺に初詣で (2)
 2017年の正月、世田谷区にある曹洞宗の禅寺豪徳寺に初詣でしました。山門から入ったところにある仏殿とよばれる古い大きな建物で新年の参拝をしたのち、その右側を通ってさらに奥に向かいます。

玉砂利を敷いた広場がありますが、そこにはボタンの木がたくさん植えられています。毎年5月のシーズンには各種のボタンが花盛りになり、あでやかな花を愛でる人で大にぎわいとなります。

仏殿のうら、ぼたん園の奥に、豪壮な本堂があります。江戸時代の初めに建てられた本堂は関東大震災に伴う火災で焼失したとのことで、現在の本堂は鉄筋コンクリート造りです(下の写真)。

マレーシア機

 東京では、1923年の関東大震災で崩壊したりその後の火災で焼失した寺社仏閣がかなりあります。中央区にある築地本願寺も関東大震災にともなう火災により本堂を焼失し、その後鉄筋コンクリート造のインド様式の建物で再建されました。

豪徳寺の山門も、1884年(明治17年)に建てられたものがやはり関東大震災で倒壊し、昭和初期に再建されたそうです。豪徳寺では、その山門、山門の内側にある仏殿、上の写真の八角灯篭と本堂が一直線上に配置されているとのことです。

マレーシア機

 仏殿の右側にテントがあって甘酒を販売していたので、そこで暖かい甘酒を飲んで一休みしました。山門のほうを見ると、仏殿で初詣でする参拝客の行列がすでに山門のあたりにまで伸びていました。

本堂の入口には、豪徳寺の寺章のついた白い大きな幕が張られていました。その幕をくぐって、初詣での参拝客が次々に石段を登って本堂に入ってゆきます。

参拝客は、本堂の入口に置かれた香炉で香をたき、その煙を浴びて新年の幸を祈ります。香炉の煙が入口の幕から漏れて新年の空に向かって立ち上っていきました。

マレーシア機

漱石の跡 本堂の右手にある寺務所ではおみくじを販売しており、新年の運勢を占う参拝客が列をつくって買い求めていました。
最近は寺社に参拝する外国人が多くなり、おみくじもお告げを英語で併記してあるそうです。

寺務所の前に、トラ猫の人形が一匹たたずんでいるのを見つけました。

漱石の跡 江戸時代に当寺の前で井伊の殿様を招いたという招き猫ちゃんの子孫でしょうか。なかなか愛嬌のある表情で、外国人が盛んに写真を撮っていました。

寺務所では 「招福猫児」 という招き猫の人形を販売しています。この時期は、上級学校への進学を志望する受験生が盛んに購入するそうです。


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(2017/01/21(土) 07:01)

 マレーシア航空機の捜索終了
 2014年3月8日午前0時41分(現地時間)、マレーシア航空370便は12人の乗員を含む239人を乗せてマレーシアのクアラルンプール国際空港を出発し、北方中国北京空港に向かいました。

同機は離陸の約50分後、ベトナム南部の海岸近くの海上を航行中の午前1時30分を最後に、各国空港の管制当局との交信を絶ちました。

マレーシア機

 その後の調査で同機はなぜか目的地と反対方向に飛行してオーストラリア南西部の海域に墜落した可能性が高いのがわかり、関係各国の大掛かりな海上捜索が始まりました。しかし、その後3年近い年月が経過しても同機の本体はなお発見されていません。

2017年1月17日、同マレーシア航空370便について、インド洋での海底捜索活動に参加している3カ国は、手がかりが得られないまま捜索活動を終了したと発表しました。

陸地から遠く離れた大洋上空から無線連絡がないまま墜落し、その後深い海底に沈んだ航空機の捜索が、現代の技術を尽くしてもいかに困難であるかがわかります。

このような航空事故での事故原因究明のために、現在では 「ブラックボックス」 と呼ばれる音声・データ記録機器を航空機に搭載するのが法律で決められています。

マレーシア機

  ブラックボックスは、通常は上図のような堅牢な金属ケースにデータ機器を収納し、航空機の尾翼の近くに搭載します。

データ機器は下図に示す 「コックピットヴォイスレコーダー」 と 「フライトデータレコーダー」 から成り、前者は飛行中のコックピット内で操縦士たちが交わした会話、後者は航空交通管制機関との交信内容、機体の飛行状況を記録します。

すべてを記録すると記録量が膨大になるため、古いデータを消しながら直近の出来事を次々に記録してゆきます。このため、一定時間以前(2時間ぐらいが多い)のデータは記録に残りません。

マレーシア機

 不幸にして航空事故が発生した場合、ブラックボックスは内蔵の電池を利用して強力な超音波信号(ピング)を発信します。その信号の周波数は37.5KHZで、漁船の魚群探知機の信号と同じだそうです。

航空事故発生の報を受けて出動した船舶は、その近海を1.5ノットの低速で航行しつつ、最長6100mのケーブルを船尾から下ろしてその先端につけたリスナーで海底からのピングを捜索します。

マレーシア機

 しかし、事故機が6000mを大きく超える深海に沈んだ場合には、ブラックボックスからのピング信号が検出困難になることもあるでしょう。捜索に時間がかかると、そのうちにブラックボックス内蔵の電池が消耗してピング信号が発信できなくなります。

2016年5月19日にフランスのパリからエジプトのカイロへ向かっている途中、アレクサンドリア沖で地中海に墜落したエジプト航空機の場合は、捜索に参加したフランスの潜水艦が海底のブラックボックスからのピング信号をキャッチしたそうです。
しかし、今回のマレーシア航空のようにブラックボックスからの信号を検出できないまま捜索活動終了となる場合も多いとのことです。

そのため現在では、上記のように航空機のブラックボックスに保存されるデータを同時に人工衛星を通じて地上に常に送信して保存するという方式が提唱されているそうです。

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(2017/01/19(木) 07:23)

 ボストン美術館 ・ 天心園
 ボストン美術館が開館するまではまだ若干の時間があるので、わたしどもはまず美術館の西側にあるバックベイ・フェンという親水公園の中を散歩することにしました。

美術館の正面入口の左側を回り、美術館の建物の西側に向かいました。美術館の敷地に沿って、昔の日本の武家屋敷を思わせるような木でできた門があり、その両側には板塀が設けられていました。


岡倉天心

 近寄ると、門の近くに日本語で 「天心園」 と書かれた木製の説明板があり、その由来が英文で記述されていました。

岡倉天心は明治の美術史研究家で、東京美術学校の創設など美術教育でも非常に大きな貢献をした人です。天心は20世紀初頭に渡米してボストン美術館の職員となり、やがて1904年にボストン美術館の東洋部長に就任しました。

岡倉天心

 天心園の門の左側には、日本の石灯籠が立っています(下の写真)。門の中は、枯山水方式の日本庭園になっているようです。

この日本庭園は、岡倉天心の業績を称えて美術館の敷地内に造成されたものです。石はボストン近郊の山地から運び出した御影石を使用しており、築地塀の瓦や表門の木材は日本から持ち込んで宮大工によって組み立てられました。

岡倉天心

 美術館の西側にあるバックベイ・フェンという親水公園に向かってさらに歩きました。ボストンの緯度は、日本ではほぼ北海道中央部にあたるそうで、冬季の寒さは大変厳しいということです。
私どもがボストンに行ったのは9月半ばで、市部の街路樹などはようやく黄葉が始まったところでした。

バックベイ・フェンの近くに来ると、カシの木と思われる大きな落葉樹が空をかくすように立っている公園に出ました。ところどころ、木々の間から地面にさしこむ秋の陽光が、まぶしいくらい明るく見えました。

岡倉天心

 ふと、落ち葉が散り敷く地面の上を小さい動物がすばしこく動き回っているのを見ました。ときどき動きを止めて、私どものほうを見ています。長い尾をもつリスのようです。

美術館からバックベイ・フェンにかけては、カシの木やしいの木の類が多く、地面にどんぐりが多数落ちていましたが、ここのリスくんたちもどんぐりを主食にしているようです。

岡倉天心


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(2017/01/17(火) 06:31)

 Windows10の修復ディスク
 ヤフオク!で1万円で落札したパソコンは、Windows7が正常に動作するのを確認し、次に各種アプリケーションソフトをインストールしてまずは日ごろの仕事に使えるようになりました。

このころ、マイクロソフト社は、Windows7 は2016年7月末までは Windows10 に無料でアップグレードできるとアナウンスしていました。それに応じて、私はこのパソコンを Windows7 から Windows 10 にアップデートしました。

パソコンを長年使っていると、重大なトラブルが発生することもあります。Windows などオペレーティングシステムがらみのソフトウェアが正常な動作をしなくなる場合もあれば、ハードディスクの故障によりパソコンが起動しなくなる場合もあります。

この際に使うのが、パソコンメーカーから提供される 「リカバリ・ディスク」 (修復ディスク)です。パソコンが正常に起動しなくなった場合にも、このディスクをパソコンに装着して電源スイッチを入れると、ディスク内に記録されているプログラムによりパソコンを起動できます。

上記のようにこのパソコンを Windows7 から Windows 10 にアップデートした際に、最後に下図の画面が表示され、「システム修復ディスク」 の作成を推奨してきました。
このパソコンを今後長年利用するにはシステム修復ディスクは必要になるので、この際作成することにしました。

パソコン

 システム修復ディスクは以前の Windows でも利用されてきましたが、これまでは光学ディスク DVD-R か DVD-RW に作成するのが普通でした。Windows10 では、のちに説明するように光学ディスクのほかにUSB接続メモリを記録メディアとして作成することもできます。

ここでは、データ転送速度が遅い欠点はありますが、昔から使わてきて安心感のある CD-RW を記録メディアとしてシステム修復ディスクを作成しましょう。

パソコン

 上図で指定した記録メディアにブート・メディアのデータの記録が始まります。やがて、データの記録が終了すると、パソコンのプログラムによってその内容が正しいかが検査されます。

それらが終了すると、下図の画面が表示され、ブート・メディアの作成が終了します。作成された CD-RW には、さっそくサインペンなどでコンテンツがわかるようにメモを書いておきましょう。
終わったら、 CD-RW はケースに入れてほこりなどが付かないように密封して大事に保管してください。

パソコン

 なお、Windows10のパソコンでは、このリカバリ・ディスクはコントロールパネル内蔵のプログラムでいつでも簡単に作成できます。

光学ディスク DVD-R か DVD-RW 、またはUSB接続メモリを記録メディアとして用意して、パソコン画面左下のスタートボタンをクリックしてコントロール・パネルを開きます。
その中の 「バックアップの作成」 を選択し、「修復ディスクの作成」 をクリックすると、記録メディアの種類を選択する画面になります。

最初に述べたように、万一パソコンが起動しなくなった場合には、このシステム修復ディスクがないとお手上げになります。皆様もぜひ早くシステム修復ディスクを作成して手許に保管して下さい。


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(2017/01/15(日) 07:04)

 漱石の跡を歩く
 作家夏目漱石は、1916年(大正5年)12月9日にこの世を去りました。したがって、本2017年が漱石没後100周年になります。

漱石は、生涯の大部分を東京ですごした江戸っ子作家でした。生まれたのも死んだのも東京で、お墓も東京・雑司が谷にあります。
現在でも東京の方々に漱石に関係のある土地・建物が残っており、私ども文学ファンが漱石の跡をたどることができます。

漱石の跡 一時東京・御茶ノ水でインターネット関係の仕事をしていたとき、明治大学の裏に御茶ノ水小学校という小学校を見かけました。
その小学校が漱石が通った錦華小学校の後身であることを知りました。

同小学校の前には、『吾輩は猫である』 の冒頭の一節を刻んだ石碑がありました(左の写真)。

 当時、錦華小学校は上流家庭の子弟が通う名門校だったようで、漱石は他の小学校からここに転校してきたとのことです。
漱石はこの錦華小学校を優秀な成績で飛び級卒業し、府立一中に進学しました。

第一高等学校を経て東京帝大を卒業した漱石は、後の小説 『坊ちゃん』 の舞台となった松山中学の教諭を経て、熊本第五高等学校(現在の熊本大学)の教授になりました。

漱石の跡 その後、漱石は文部省留学生としてロンドンに派遣されました。留学先で漱石は強度の神経衰弱になり、留学期間を一年切り上げて帰国しました。

その後、漱石は第一高等学校教授、東京大学講師となりました。写真は、漱石が卒業し、後に教鞭をとった東大文学部の建物の入口です。

 上記東大文学部の建物は、東大のキャンパスに現存する建物の中でももっとも古いものの一つです。

漱石は、東京帝大での英語教師の仕事に嫌気がさしていましたが、そこに亡友正岡子規の弟子俳人高浜虚子がやってきました。
虚子は漱石の愚痴を聞き、気分転換のために小説を書いて虚子が主宰する俳誌 『ホトトギス』 に掲載したらどうかとすすめました。

漱石の跡 漱石も乗り気になって、まずは目の前にいる漱石家の猫を主人公にして小説を書き始めました。

漱石は、この時期は文京区根津神社の近くの貸家に住んでいました。
漱石がそこでデビュー作 『我輩は猫である』 など初期の名作を執筆したことから、その家は 「猫の家」 とよばれます。

 現在はその家は「明治村」に移建され、根津の旧居址に川端康成の筆になる石碑(上の写真)が立っています。石碑の横のコンクリート塀の上には、ブロンズの猫が一匹置かれてありました(^_^)。

なお、漱石が入居する前には、森鴎外がこの家に住んでいました。鴎外はここを出てから、近くの千駄木町に邸宅を構えました。

漱石の跡 小説 『吾輩は猫である』 の中で苦沙弥先生宅に集う愛すべきキャラクタの中に、「水島寒月君」 という人がいます。

小説中では寒月君は学問最高の府を一番で卒業した天下の秀才ということになっていますが、これは漱石の弟子でもあった物理学者寺田寅彦をモデルとしたといわれます。

 上の写真は、東大理学部の中でももっとも古い建物で、現在では化学科の教室になっているそうです。小説 『我輩は猫である』 の中で寒月君が実験に使用する球レンズを磨いたのは、寅彦の職場であったこの建物ではないかと思われます。

漱石の初期の名作 『三四郎』 に登場して一躍東京名所の一つとなった三四郎池は、東大キャンパスの前身である加賀藩前田家上屋敷の時代からあり、「ひょうたん池」 と呼ばれていたとのことです。

この池は、面積はさほど大きくありませんが、シーズンごとに池の周囲の表情が大きく変わり、訪れる人々を楽しませてくれます。

小説 『三四郎』 では、この池のほとりで三四郎は団扇を持った若い女性里見美禰子(みねこ)に出会います。美禰子のモデルは、文芸誌 『青鞜』 の創刊者平塚らいてうであったといわれます。

漱石の跡


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(2017/01/13(金) 07:05)

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