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 桜満開 / 吞川親水公園
吞川親水公園 国道246線を渋谷から外側に向かい、桜新町の近くにくると、道路の左側に小川が伸びていて、その両側に桜の大木が並んでいます。

これが、「呑川親水公園」です。呑川は、もとはかなり大きな川だったとのことですが、その流域があらかた都市化したことにより、現在では川の大部分が暗渠になっています。

吞川親水公園 「呑川親水公園」の部分では、その暗渠の上部に1kmほどにわたって小川をつくり、そこに下水の高度処理水という大変きれいな水などをポンプで流しています。都心に近い住宅地としては数少ない緑豊かな水辺となっています。

その小川の両側にソメイヨシノの大木の並木が伸びており、その下に石畳の遊歩道が設けられています。

吞川親水公園 毎年春の桜のシーズンには、川筋に沿って見通すかぎりの豪華な花のトンネルができ、小川の両側に設けられた遊歩道には桜を愛でる人々がひきも切らず通ります。

小川の両側の遊歩道は、自動車はこの地区の住人だけのようで通行が少ないので、のんびりと桜の花を見上げながら歩いていても心配はありません。

 この小川には、カルガモ、ガン、オシドリなど、各種の水鳥がたくさん住み着いています。また、多摩川、大井埠頭、不忍池など東京の水辺に住んでいる水鳥たちが、ここに飛来することもあるそうです。。

春先には水鳥たちのヒナが誕生し、ピヨピヨと鳴きながら親鳥のあとを一生懸命追っかけて小川の水面を泳ぎまわります。

吞川親水公園

 呑川は、広大な世田谷深沢の住宅地の中央を通って自由が丘のほうに流れています。大昔は深沢地区は畑が広がっていたそうですが、この呑川の周りは広い田んぼだったのでしょう。

このあたりは深沢住宅地の中心で戸建て住宅が多いところですが、都心へのアクセスもよいので最近はマンションが増えつつあります。呑川の川筋を借景として、マンションの見栄えが断然よくなります(^_^)

吞川親水公園


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(2015/03/31(火) 07:25)

 京都・詩仙堂
詩仙堂  「宮本吉岡決闘之地」 からさらに500mほど東に歩くと、古風な門が見えてきました。これが京都の名園として有名な詩仙堂の山門です。

詩仙堂は徳川家の家臣石川丈山が59歳のときに造営した山荘で、丈山は90歳で没するまでここで風雅な生活を送りました。江戸初期の山荘の姿を現在まで伝えています。

詩仙堂 詩仙堂にはみごとな庭園があり、四季の景観が楽しめるとのことで、ぜひ入園したかったのですが、あいにくこのころから雲が厚くなり、あたりは暗くなってきました。

他にも見たいところがあるので、残念ながら詩仙堂は屋敷の外から写真を撮るだけにしました。左は庭園の一部で丸く刈り込んださつきが見えます。


詩仙堂 入口に立つと左側に 「史蹟詩仙堂」 の碑がありました。正面の門は小有洞(しょうゆうどう)とよばれます。

小有洞を入ると巾の広い石段があり、その両側は密集した竹林になっています。

日光が遮られてほのぐらい中をゆっくりと登って行くと、老梅関という門の内側に詩仙堂の玄関が見えてきました。

詩仙堂 山荘の玄関の上は三階建の「嘯月楼」という建物で、仏間、座敷、「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋があるそうです。写真は庭園に面した座敷の一部です。

詩仙の間という四畳半の部屋には中国の詩家36人の肖像が掲げられているそうです。それにちなんで山荘は詩仙堂とよばれるようになりました。

 石川丈山は優れた造園家でもあったということです。その丈山により設計された庭は四季折々にさまざまな表情を見せ、訪れる人を楽しませます。特に春5月ごろのサツキと秋11月ごろの紅葉がみごとで、多数の観光客で賑わいます。

白砂が敷きつめられた庭園には枯山水風に多数の石がおかれています。庭の隅に設けられたししおどしの鋭い音が、その庭園に響きます。

詩仙堂

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(2015/03/29(日) 06:26)

 旧音楽学校奏楽堂 (2)
 旧奏楽堂は、西洋音楽ホールの建築設計技術、音響設計技術が日本にはほとんどなかった明治23年に、西洋でそれら技術を習得した少数の先覚者たちが試行錯誤しつつ創建しました。

昭和59年に旧奏楽堂が移転のために解体されましたが、その際、音楽ホールの床下と壁面内部から大量の稲わらの束が発見されました。これは音楽ホールに必要な遮音性と音響性能を当時容易に入手できた材料で実現しようと試みたものだったのでしょう。

奏楽堂

奏楽堂  奏楽堂舞台の照明は舞台近くの天井から吊るされたシャンデリアで行われています(左の写真)。これは、当時旧奏楽堂で使われていたシャンデリアをLED灯を使って復元したものだそうです。

奏楽堂の窓には、分厚い二重のカーテンがかけられています。外部の騒音が入ってくるのを防ぐためでしょう。

奏楽堂  舞台背面にあるパイプオルガンは、徳川家がイギリスから輸入して東京音楽学校に寄贈したもので、日本最古の音楽ホール用オルガンだそうです。

舞台には、かなり古い製作と思われるピアノが2台置かれていました。ここ旧奏楽堂での第一回コンサート(1898年)では滝廉太郎がバッハの曲を演奏したということです。

奏楽堂左の写真は舞台近くから階段状の客席上部を撮影したものです。現在の座席は近代的な鉄製フレームに布張りになっていますが、当時の旧奏楽堂ではどのような座席だったのでしょうか。

ご覧のように客席のつくりは華美ではありませんが、さすがに100年以上にもわたる歴史の重さが感じられます。

奏楽堂 旧奏楽堂の音楽ホールを出ると、音楽ホールの両側に小さい教室のような部屋がかなりあるのがわかりました。
音楽の指導や練習に使っている部屋のようです。

壁に和服姿の滝廉太郎の写真がかかっていました。廉太郎は23歳で亡くなったそうですが、やはりどこか病弱だったのを思わせる写真でした。

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(2015/03/27(金) 06:27)

 焚き火でチャーハン
羽根木 羽根木公園で梅園と反対側の一角には、「プレーパーク」という子供たちの遊び場があります。公園として整備されたところではなく、ただの原っぱが広がっているだけです。

皆様も、子供のころこのような原っぱで落とし穴を掘ったり、小屋を作ったり、木の枝にブランコを吊ったりして遊んだことがあったでしょう。

羽根木 現在は、子供たちが原っぱで自由に遊び、それにより体力をつけたり創造力を養ったりする機会が少なくなりました。

そこで世田谷区では、区立の公園内の遊休スペースを活用し、「プレーパーク」という名で子供たちの自由な活動の場として開放しました。現在世田谷区にはこのようなプレーパークが3ヶ所あるそうです。

羽根木各プレーパークには常駐のリーダーがいて、父兄のボランティアとともに子供たちの原っぱ遊びを指導しています。
その指導のもと、子供たちは自分たちの思うように遊び心を発揮して楽しんでいます。

公園のよい空気をいっぱい吸って一日中遊びまわれば、当然お腹がすいて背中とお腹がくっつきそうになります。

羽根木そこで、父兄たちが特製の野外料理を作ってくれました。

まず、公園の隅の方から落ち葉をたくさん集めて、石の炉に入れて火をおこします。ここでは父兄が火を起こすのが認められています。

父兄の中には野外料理の達人がいるようで、大きなフライパンを火にかけて具をいためてから冷や飯を入れます。

羽根木 まもなく上の写真のように立派なチャーハンがフライパンの中に出来上がりました。

続いて、ずん胴の大なべに湯をわかし、青菜を入れておいしそうな味噌汁を作りました。

その匂いをかぎつけ、子供たちがプレーパーク内の方々からいっせいに目を輝かせて集まってきて、焚き火の周りをとり囲みました (^_^)

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(2015/03/25(水) 06:35)

 京都一乗寺かいわい
一乗寺かいわい このたび思い立って、久しぶりに京都を訪れました。

これまで数度京都旅行をしましたが、洛北鞍馬の方向には一度も行っていません。寒さが薄れるこの時期に、当地の名勝・史跡を訪ねることにしました。

新幹線・京都駅で降り、そこからJR奈良線で東福寺に行き、京阪電車に乗りかえて加茂川に沿って北上して出町柳駅に行きます。

一乗寺かいわい 出町柳は加茂川に高野川が合流するところで、昔からの交通の要衝です。
そこから叡山電鉄という小さな電車に乗り、北の比叡山の方向に行きます。

叡山電鉄は京阪電気鉄道が運営するミニ電鉄です。車両はさまざまな形式があるようですが、私どもが乗ったのは写真のワンマンカーでした。

一乗寺かいわい叡山電鉄は山登りをするためでしょうか、ミニ電鉄としては珍しく標準軌(線路幅1435mm)を採用しています。そのため車両内部は広く、ゆったりとした乗り心地が楽しめました。

出町柳駅から3つ目の一乗寺駅で降りました。この辺は最近は観光客が多いはずですが、一乗寺駅はご覧のようにパッとしない田舎の駅舎でした。

一乗寺かいわい 一乗寺駅から山が見える方向に10分ほども歩くと、道端に大きな自然石の碑が2つ立っていました。

向かって右側の石碑には 「大楠公戦陣跡」 と彫られていました。1336年、楠正成が鎌倉から京都に攻め上ってきた足利尊氏の大軍をこの地で迎え撃って勝利を収めたのを記念するものです。

一乗寺かいわい もう一方の丈が高い黒い石碑には 「宮本吉岡決闘之地」 と記されてありました。

1604年、剣客宮本武蔵はこの一乗寺下がり松の地で京都の吉岡道場側一派と最後の決闘を行い、勝利を得ました。
この石碑は大正時代の1921年にその宮本武蔵の闘いを記念して武道家堀正平が建立したものだそうです。

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(2015/03/23(月) 07:28)

 旧音楽学校奏楽堂
旧音楽学校奏楽堂 東京藝術大学の前身東京音楽学校は、日本の音楽教育の中心として多数の人材を世に送り出しました。

学校の中央部分に置かれていた奏楽堂は、パリに留学した山口半六という建築家によって設計された日本最古の木造洋式音楽ホールで、音楽学校での練習、発表の場として長く使用されました。

旧音楽学校奏楽堂 昭和59年に旧奏楽堂は解体され、その後建築各部の部材を整備補修したうえ上野公園内北端、東京都美術館の北側に移築されました。

木造の大きな門から入ると、古風な車寄せのついた玄関が見えました。旧奏楽堂の創建当時は、写真左側の門から馬車が入ってこの車寄せで止まったことでしょう。


旧音楽学校奏楽堂東京音楽学校の卒業生の中に、日本の西洋音楽創成期で活躍した滝廉太郎がいます。滝廉太郎は1879年生まれで、作曲とピアノ演奏で優れた才能を発揮しました。

左の写真は、旧奏楽堂入口の横にあった滝廉太郎の銅像です。旧奏楽堂一階の常設展示場には、滝さんの手稿、遺品などが展示されていました。

旧音楽学校奏楽堂 奏楽堂として使われていたのはこの建物の二階部分だったとのことです。しかし、現在ではこの建物全体が旧音楽学校奏楽堂と呼ばれています。

建物の一階部分には常設展示場があり、旧奏楽堂の創建以来現在に至るまでの歴史、各時代の演奏家たち、音楽ホールの造りなどに関する史料が展示されています。

旧音楽学校奏楽堂 一階の常設展示場では、三浦環など当時の音楽学校卒業生らが残した演奏録音を聴くことができます。瑞々しい歌唱に感銘を受けました。

昔のホテルの階段のような木の階段で、旧奏楽堂の二階に向かいました。旧奏楽堂の音楽ホールは階段教室のような造りになっており、客席は旧奏楽堂の二階から入ります。

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(2015/03/21(土) 06:51)

 羽根木・梅祭り (3)
 世田谷区立羽根木公園の入口には大きな石段がありますが、その下に立って目の前の丘を見上げると大きな紅梅の木が扇のように枝を広げています。

春の梅祭りの時期には、下の写真のように紅梅が花盛りになり早春の空を圧するばかりの存在感を示します。入園者の皆さんは、この紅梅の前に立ち、こずえを見上げて感嘆の声をあげます。

羽根木・梅祭り

 羽根木公園では、梅祭りの期間にさまざまなイベントが開催されます。私どもが行ったときは、入口横の広場で、子供たちのグループがなにか幕末の出来事を記念するイベントをしていました。

水色の羽織をつけ、鉢巻をした子供たちが、太鼓を打ち鳴らして大声でなにか叫んでいます。近くにある松蔭神社でこのようなイベントを見かけましたが、そのグループがここに出張しているのかも知れません。

羽根木・梅祭り

羽根木・梅祭り  羽根木公園の反対側にある広場では、広場の中のテーブルに子供たちが12、3人座り、そのまわりに父兄たちが集まっていました。

テーブルには白いクロスがかけられており、テーブルに座った子供たちの前にはおいしそうなケーキが並べられています。どうやら、これから誕生会でもするようです。

羽根木・梅祭りやがて父兄の一人がなにか会の挨拶をしはじめましたが、テーブルに座った子供たちは目の前においしそうなケーキがあっては落ち着きません。

写真の女の子はとうとう待ちきれずケーキの上のイチゴに手を伸ばしました。左利きなのか、左手でつまみ食いをするのがかわいいですね。それを見て他の子も・・・・。

羽根木・梅祭り 公園の一角にはかなり広い広場があり、そこにテント張りの出店が軒を連ねていて焼きそば、おでんなどをお客に供しています。

ふと横を見ると、4歳ぐらいのお嬢ちゃんが自分の頭より大きい綿あめに果敢にチャレンジしていました。そばにいたお母さんのご了承を得て写真を撮らせていただきました。

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(2015/03/19(木) 06:22)

 真鶴漁港
 中川一政美術館からバスに乗り、真鶴港に着きました。真鶴港は昭和9年(1934年)3月に建設され、以後漁港・石材積み出し港として真鶴町の発展を牽引してきました。
その後港内の真鶴魚市場「魚座」の完成、遊覧船の就航により、真鶴港は観光の拠点としても重要な役割をはたすようになりました。

バス停で降りて港内を見渡すと、少し離れた突堤の先に赤い小さな灯台が立っているのが見えました。たしか、中川一政さんの絵画にこの灯台を描いたのがあったと思います。

真鶴漁港

 真鶴周辺の海は複雑に入り組んだ岩海岸なので、かさご、しゃこ、うつぼ、いせえびなどがよく獲れる良い漁場だそうです。広くない真鶴漁港の中には、漁船、遊覧船など小型船が多数行き交っていて、活気にあふれていました。

真鶴には、平坦な土地はほとんどありません。漁港の裏にはすぐ山が迫っており、海岸近くの狭い土地に漁港のさまざまな施設や観光客相手のレストランなどがひしめくように建っています。

真鶴漁港

真鶴漁港 朝早くから真鶴にきて三ツ石と中川一政美術館を見たので、大分おなかがすきました。
真鶴漁港の近くで本場の海の幸をいただこうと思います。
ここでは鯛やいせえびの生き造りも食べられるそうです。

こういう情報は、土地の人かタクシーやバスの運転手さんに尋ねると、たいていよい場所を教えてくれます。

真鶴漁港今回は、バスの運転手さん推薦の漁港の近くにある料理屋に入りました。まずは熱燗を注文すると、その突き出しに店で作った烏賊の塩辛が出てきましたが、一口食べて力強い味に圧倒されました。

やがて、注文した鯛の生き造りが出てきました。鯛の生き造りなんて、私どもはここ十年以上食べていません。

真鶴漁港 さっそくお皿の中の鯛の刺身に箸を伸ばすと、突然鯛くんが口をぱくぱくさせ、同時に尾びれをばたばた振りました。
この鯛くんの勢いに、こちらはしばらく食べるどころではなく見つめるのみでした。

生き造りのほかに鯛の煮付けが出てきました。金目鯛の刺身、かさごのから揚げなども小鉢でいただきました。

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(2015/03/17(火) 06:33)

 新宿御苑 2月 (3)
新宿御苑 私どもが新宿御苑に行った日は、さいわい風もなく日差しが柔らかい小春日和でした。

池の水面が静かなので、岸辺の木立が池の面にみごとに逆さに映されます。

左の写真は日本庭園の池ですが、岸辺の大きな松の木がまるで池の中に逆さに立っているように見えました。思わずはっと驚くような光景ですね。

新宿御苑 こちらの池の水面には御苑の外にある副都心オフィス街の高層ビル群がみごとに逆さまに映っていました。

さすがにこの時期には景色も空気も真冬の凛烈さがなくなり、遠くの高層ビル群も春の霞でパステル調に見えました。
しかし、なぜか池面に映った高層ビルは実物よりコントラストが強くくっきりとしていました。

新宿御苑 御苑には現在約2万本もの樹木が植えられているそうですが、それらの中でも写真のプラタナス並木は有名です。

海外の大都市に多いプラタナスを東京に街路樹として利用する目的で、海外から取り寄せたプラタナスをこの新宿御苑で育種植栽したそうです。以来100年、プラタナス並木は立派な景観になりました。

大きな葉を持つ巨樹プラタナスは、シーズンごとに鮮やかに表情を変え、この並木道を行き交う来苑者を楽しませてきました。

この時期には並木は葉をすべて落とし、高いこずえは冬の青空を突き上げるように延びていました。本日は来苑者は少ないようで、並木道にあるベンチにも人の姿はまばらでした。

新宿御苑

新宿御苑 御苑の中をぐるりと歩き、途中で苑内の喫茶でゆっくりと休みました。合計2時間あまりの散策をして、入口に近いところに戻ってきました。

ここには小さな池を持つ静かな日本庭園があり、枯山水風に造った岸辺にいくつか石灯籠が立っています。日陰では早春の空気が冷たく、石灯籠の影が青く感じられました。

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(2015/03/15(日) 06:55)

 中川一政美術館 (2)
中川一政美術館 太平洋戦争が終った後の1949年、当時56歳の中川一政画伯はこの温暖の地 真鶴町にアトリエを構えました。
真鶴漁港近くの福浦の景観に深く感銘を受け、福浦の風景画を多数制作しました。

以降20年にわたり、中川画伯は真鶴のアトリエを拠点に真鶴、箱根や桜島などの風景画を多数描きました。

 1967年、74歳になったころから、中川画伯は箱根に滞在して駒ケ岳などの風景画を制作することが多くなりました。

90歳になったころから、中川さんは箱根を去って真鶴のアトリエでの創作に没頭するようになりました。中川さんは、90歳に近いころまで、重いイーゼルをかついで真鶴や箱根の景色を写生するために出かけられたということです。またアトリエで「薔薇」や「向日葵」、孫をモデルにした人物画などを多く描きました。

中川一政美術館

 1989年、画伯が96歳のとき、真鶴町立中川一政美術館が開館しました。画伯から寄贈された絵画、書、色紙などを多数展示しています。

中川画伯は1991年に98歳の天寿を全うして没しました。その後、町立中川一政美術館に隣接するお林展望公園にある管理棟内に、故中川一政画伯のアトリエの内部が復元され、一般に公開されるようになりました(上の写真、下の写真)。

中川一政美術館

中川一政美術館 復元されたアトリエは、中川画伯のアトリエを実際に使われていた当時そのままに忠実に作ってあるそうです。

床には書きかけの絵が多数並べられており、パレットや画筆が机に置かれてありました。
アトリエには暖房用の大きなストーブも設置されてありました。
美術館で中川絵画を鑑賞された後、こちらもご覧ください。 


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(2015/03/13(金) 06:58)

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