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 旧音楽学校奏楽堂 (2)
 旧奏楽堂は、西洋音楽ホールの建築設計技術、音響設計技術が日本にはほとんどなかった明治23年に、西洋でそれら技術を習得した少数の先覚者たちが試行錯誤しつつ創建しました。

昭和59年に旧奏楽堂が移転のために解体されましたが、その際、音楽ホールの床下と壁面内部から大量の稲わらの束が発見されました。これは音楽ホールに必要な遮音性と音響性能を当時容易に入手できた材料で実現しようと試みたものだったのでしょう。

奏楽堂

奏楽堂  奏楽堂舞台の照明は舞台近くの天井から吊るされたシャンデリアで行われています。これは、当時旧奏楽堂で使われていたシャンデリアをLED灯を使って復元したものだそうです。

奏楽堂の窓には、分厚い二重のカーテンがかかっています。外部騒音の侵入を防ぐためでしょう。

奏楽堂  舞台背面にあるパイプオルガンは、徳川家がイギリスから輸入して東京音楽学校に寄贈したもので、日本最古の音楽ホール用オルガンだそうです。
舞台には、かなり古い製作と思われるピアノが2台置かれていました。ここでの第一回コンサート(1898年)では滝廉太郎がバッハの曲を演奏したそうです。

奏楽堂左の写真は舞台近くから階段状の客席上部を撮影したものです。現在の座席は近代的な鉄製フレームに布張りになっていますが、当時の旧奏楽堂ではどのような座席だったのでしょうか。
ご覧のように客席のつくりは華美ではありませんが、さすがに創建以来100年以上にもわたる歴史の重さが感じられます。

奏楽堂 旧奏楽堂の音楽ホールを出ると、音楽ホールの両側に小さい教室のような部屋が多数あるのがわかりました。音楽の指導や練習に使っているようです。
壁に和服姿の滝廉太郎の写真がかかっていました。廉太郎は23歳の若さで亡くなったそうですが、やはりどこか病弱だったのを思わせる写真でした。


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(2018/04/02(月) 07:27)

 旧音楽学校奏楽堂
旧音楽学校奏楽堂 東京藝術大学の前身東京音楽学校は、日本の音楽教育の中心として多数の人材を世に送り出しました。
学校の中央部分に置かれていた奏楽堂は、パリに留学した山口半六という建築家によって設計された日本最古の木造洋式音楽ホールで、音楽学校での練習、発表の場として長く使用されました。

旧音楽学校奏楽堂 昭和59年に旧奏楽堂は解体され、その後建築各部の部材を整備補修したうえ上野公園北端、東京都美術館の北側に移築されました。
木造の大きな門から入ると、古風な車寄せのついた玄関が見えました。旧奏楽堂の創建当時は、写真左側の門から馬車が入ってこの車寄せで止まったことでしょう。


旧音楽学校奏楽堂東京音楽学校の卒業生の中に、日本の西洋音楽創成期で活躍した滝廉太郎がいます。滝廉太郎は1879年生まれで、作曲とピアノ演奏で優れた才能を発揮しました。左の写真は、旧奏楽堂入口の横にあった滝廉太郎の銅像です。旧奏楽堂一階の常設展示場には、滝さんの手稿、遺品などが展示されていました。

旧音楽学校奏楽堂 奏楽堂として使われていたのはこの建物の二階部分だったとのことです。しかし、現在ではこの建物全体が旧音楽学校奏楽堂と呼ばれています。
建物の一階には常設展示場があり、旧奏楽堂の創建以来現在に至るまでの歴史、各時代の演奏家たち、音楽ホールの造りなどに関する史料が展示されています。

旧音楽学校奏楽堂 常設展示場では、三浦環など当時の音楽学校卒業生らが残した演奏録音を鑑賞できます。瑞々しい歌唱に感銘を受けました。
昔のホテルの階段のような木の階段で、旧奏楽堂の二階に向かいました。旧奏楽堂の音楽ホールは階段教室のような造りになっており、客席は旧奏楽堂の二階から入ります。


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(2018/03/25(日) 06:51)

 姉妹ウェブサイト「実りのとき」の新URL
姉妹ウェブサイト「実りのとき」

 いつも本ブログサイト 「憩いのとき」 をご覧くださいまして、有難うございます。

私はこのブログを含めて多数のウェブサイト、ブログサイトを運営していますが、このたびそれら姉妹ウェブサイトの一つ 「実りのとき」 のサーバーを移転しました。

それに伴って ウェブサイト 「実りのとき」 のURL(アドレス)が次のように変更されました。

  旧 http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/

  新 http://tokyoweb.sakura.ne.jp/minori/

上記新URLをクリックすると、 「実りのとき」 の新ウェブサイトに移動します。

移動後、本ウェブサイト 「実りのとき」 のブックマークを更新してください。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

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(2018/03/17(土) 10:00)

 中川一政美術館
中川一政美術館 中川一政美術館に向かって歩いて行くと、南側が海岸に向かって開けた場所がありました。ご覧のように早春の駿河湾が広々と見渡せます。海の向こうに街が広がっていますが、熱海の市街でしょうか。
幸いにも快晴で風もほとんどなかったので、寒さを感じることもなく駿河湾の海の色に見入りました。

中川一政美術館 町立中川一政美術館は、中川画伯より絵画、書など多数の作品の寄贈を受け、平成元年に開館しました。
中川画伯は、1893年生とのことで、作家吉川英治さんとほぼ同年です。
美術学校に行ったことはなく、21歳のとき独学で描いた絵が岸田劉生に認められたことで画家の道を歩み始めました。

 中川画伯は終戦後この真鶴町にアトリエを構え、以降真鶴、箱根や桜島などの風景画を多数制作しました。また、生涯にわたり大変花を愛し、バラ、ひまわり、椿など色彩豊かな花の絵画も多数制作されました。

中川画伯は、お気に入りの真鶴・箱根の景観を「日本一広いアトリエ」とたたえ、精力的に方々に出かけて写生しました。

下の写真の作品は、真鶴漁港を描いた《福浦突堤》です。このあたりも中川画伯のお気に入りの場所の一つで、やはりこの漁港を描いた作品が東宮御所に献上されたそうです。

中川一政美術館

中川一政美術館 美術館には風景画も多数展示されていますが、花の絵画が多いのが目につきました。やはり私どもには、中川さんは「花の画家」というイメージが強いように思われます。
この温暖の地でさまざまな花に親しみ、それらを大いに愛されたのでしょう。中川さんが描く花の絵画の評判が非常に高く注文が多かったので、結果として花の絵画がたくさん制作されることになりました。


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(2018/03/05(月) 06:42)

 高幡不動尊
 東京都西北部をサービスエリアとする京王線で、新宿方面から八王子駅に近づくと進行方向左側に金色の大きな水煙のついた五重塔が山際に見えます。

高幡不動尊 このお寺は正式には高幡山明王院金剛寺といい、真言宗智山派別格本山という高い格式にあるそうです。

高幡不動駅で下車して高幡不動尊に向かって少し歩いてゆくと、大きな楼門が見えました。門の両側に室町時代作の仁王尊が置かれてきることから、仁王門と呼ばれています。

高幡不動尊仁王門の前に立つと、境内の丘の上に壮麗な五重塔がそびえていました。
昭和55年に落慶された比較的新しい五重塔です。

平安時代初期の様式で建てられており、青銅瓦葺、塔高40m、総高45mです。
五重塔の内部には仏像が多数安置されており、絵画などもあるそうです。

高幡不動尊 境内の仁王門の近くに「宝輪閣」という赤い大きな建物がありますが、そこの入口で護摩の受付をしているそうです。

御護摩とは、不動明王を本尊として壇を設け、護摩木という薪を焚いて願いの成就を祈る真言密教の修法です。京都の東寺で護摩を見たのを思い出しました。

 護摩を焚く火は不動明王の智慧を象徴し、護摩にくべる薪は衆生の煩悩を表しているということです。

五重塔の中には、千体地蔵堂と無料休憩所があります。まず一休みしようと五重塔地下の休憩所に入ると、その奥には大きな金色の釈迦三尊像が安置されていました(下の写真)。
釈迦三尊像の背後には、やはり金色の小さな仏像が広い壁を埋め尽くすように多数置かれていました。

休憩所の中には上記釈迦三尊像以外にも多数の仏像があり、また六不動三尊像などの大きな写真の多数掲示されていました。それらを拝見しながら、温かいお茶をいただいてゆっくりと休息をとりました。

世田谷松陰神社

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(2017/12/15(金) 07:06)

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