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 マレーシア航空機の捜索終了
 2014年3月8日午前0時41分(現地時間)、マレーシア航空370便は12人の乗員を含む239人を乗せてマレーシアのクアラルンプール国際空港を出発し、北方中国北京空港に向かいました。

同機は離陸の約50分後、ベトナム南部の海岸近くの海上を航行中の午前1時30分を最後に、各国空港の管制当局との交信を絶ちました。

マレーシア機

 その後の調査で同機はなぜか目的地と反対方向に飛行してオーストラリア南西部の海域に墜落した可能性が高いのがわかり、関係各国の大掛かりな海上捜索が始まりました。しかし、その後3年近い年月が経過しても同機の本体はなお発見されていません。

2017年1月17日、同マレーシア航空370便について、インド洋での海底捜索活動に参加している3カ国は、手がかりが得られないまま捜索活動を終了したと発表しました。

陸地から遠く離れた大洋上空から無線連絡がないまま墜落し、その後深い海底に沈んだ航空機の捜索が、現代の技術を尽くしてもいかに困難であるかがわかります。

このような航空事故での事故原因究明のために、現在では 「ブラックボックス」 と呼ばれる音声・データ記録機器を航空機に搭載するのが法律で決められています。

マレーシア機

  ブラックボックスは、通常は上図のような堅牢な金属ケースにデータ機器を収納し、航空機の尾翼の近くに搭載します。

データ機器は下図に示す 「コックピットヴォイスレコーダー」 と 「フライトデータレコーダー」 から成り、前者は飛行中のコックピット内で操縦士たちが交わした会話、後者は航空交通管制機関との交信内容、機体の飛行状況を記録します。

すべてを記録すると記録量が膨大になるため、古いデータを消しながら直近の出来事を次々に記録してゆきます。このため、一定時間以前(2時間ぐらいが多い)のデータは記録に残りません。

マレーシア機

 不幸にして航空事故が発生した場合、ブラックボックスは内蔵の電池を利用して強力な超音波信号(ピング)を発信します。その信号の周波数は37.5KHZで、漁船の魚群探知機の信号と同じだそうです。

航空事故発生の報を受けて出動した船舶は、その近海を1.5ノットの低速で航行しつつ、最長6100mのケーブルを船尾から下ろしてその先端につけたリスナーで海底からのピングを捜索します。

マレーシア機

 しかし、事故機が6000mを大きく超える深海に沈んだ場合には、ブラックボックスからのピング信号が検出困難になることもあるでしょう。捜索に時間がかかると、そのうちにブラックボックス内蔵の電池が消耗してピング信号が発信できなくなります。

2016年5月19日にフランスのパリからエジプトのカイロへ向かっている途中、アレクサンドリア沖で地中海に墜落したエジプト航空機の場合は、捜索に参加したフランスの潜水艦が海底のブラックボックスからのピング信号をキャッチしたそうです。
しかし、今回のマレーシア航空のようにブラックボックスからの信号を検出できないまま捜索活動終了となる場合も多いとのことです。

そのため現在では、上記のように航空機のブラックボックスに保存されるデータを同時に人工衛星を通じて地上に常に送信して保存するという方式が提唱されているそうです。

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(2017/01/19(木) 07:23)

 ボストン美術館 ・ 天心園
 ボストン美術館が開館するまではまだ若干の時間があるので、わたしどもはまず美術館の西側にあるバックベイ・フェンという親水公園の中を散歩することにしました。

美術館の正面入口の左側を回り、美術館の建物の西側に向かいました。美術館の敷地に沿って、昔の日本の武家屋敷を思わせるような木でできた門があり、その両側には板塀が設けられていました。


岡倉天心

 近寄ると、門の近くに日本語で 「天心園」 と書かれた木製の説明板があり、その由来が英文で記述されていました。

岡倉天心は明治の美術史研究家で、東京美術学校の創設など美術教育でも非常に大きな貢献をした人です。天心は20世紀初頭に渡米してボストン美術館の職員となり、やがて1904年にボストン美術館の東洋部長に就任しました。

岡倉天心

 天心園の門の左側には、日本の石灯籠が立っています(下の写真)。門の中は、枯山水方式の日本庭園になっているようです。

この日本庭園は、岡倉天心の業績を称えて美術館の敷地内に造成されたものです。石はボストン近郊の山地から運び出した御影石を使用しており、築地塀の瓦や表門の木材は日本から持ち込んで宮大工によって組み立てられました。

岡倉天心

 美術館の西側にあるバックベイ・フェンという親水公園に向かってさらに歩きました。ボストンの緯度は、日本ではほぼ北海道中央部にあたるそうで、冬季の寒さは大変厳しいということです。
私どもがボストンに行ったのは9月半ばで、市部の街路樹などはようやく黄葉が始まったところでした。

バックベイ・フェンの近くに来ると、カシの木と思われる大きな落葉樹が空をかくすように立っている公園に出ました。ところどころ、木々の間から地面にさしこむ秋の陽光が、まぶしいくらい明るく見えました。

岡倉天心

 ふと、落ち葉が散り敷く地面の上を小さい動物がすばしこく動き回っているのを見ました。ときどき動きを止めて、私どものほうを見ています。長い尾をもつリスのようです。

美術館からバックベイ・フェンにかけては、カシの木やしいの木の類が多く、地面にどんぐりが多数落ちていましたが、ここのリスくんたちもどんぐりを主食にしているようです。

岡倉天心


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(2017/01/17(火) 06:31)

 Windows10の修復ディスク
 ヤフオク!で1万円で落札したパソコンは、Windows7が正常に動作するのを確認し、次に各種アプリケーションソフトをインストールしてまずは日ごろの仕事に使えるようになりました。

このころ、マイクロソフト社は、Windows7 は2016年7月末までは Windows10 に無料でアップグレードできるとアナウンスしていました。それに応じて、私はこのパソコンを Windows7 から Windows 10 にアップデートしました。

パソコンを長年使っていると、重大なトラブルが発生することもあります。Windows などオペレーティングシステムがらみのソフトウェアが正常な動作をしなくなる場合もあれば、ハードディスクの故障によりパソコンが起動しなくなる場合もあります。

この際に使うのが、パソコンメーカーから提供される 「リカバリ・ディスク」 (修復ディスク)です。パソコンが正常に起動しなくなった場合にも、このディスクをパソコンに装着して電源スイッチを入れると、ディスク内に記録されているプログラムによりパソコンを起動できます。

上記のようにこのパソコンを Windows7 から Windows 10 にアップデートした際に、最後に下図の画面が表示され、「システム修復ディスク」 の作成を推奨してきました。
このパソコンを今後長年利用するにはシステム修復ディスクは必要になるので、この際作成することにしました。

パソコン

 システム修復ディスクは以前の Windows でも利用されてきましたが、これまでは光学ディスク DVD-R か DVD-RW に作成するのが普通でした。Windows10 では、のちに説明するように光学ディスクのほかにUSB接続メモリを記録メディアとして作成することもできます。

ここでは、データ転送速度が遅い欠点はありますが、昔から使わてきて安心感のある CD-RW を記録メディアとしてシステム修復ディスクを作成しましょう。

パソコン

 上図で指定した記録メディアにブート・メディアのデータの記録が始まります。やがて、データの記録が終了すると、パソコンのプログラムによってその内容が正しいかが検査されます。

それらが終了すると、下図の画面が表示され、ブート・メディアの作成が終了します。作成された CD-RW には、さっそくサインペンなどでコンテンツがわかるようにメモを書いておきましょう。
終わったら、 CD-RW はケースに入れてほこりなどが付かないように密封して大事に保管してください。

パソコン

 なお、Windows10のパソコンでは、このリカバリ・ディスクはコントロールパネル内蔵のプログラムでいつでも簡単に作成できます。

光学ディスク DVD-R か DVD-RW 、またはUSB接続メモリを記録メディアとして用意して、パソコン画面左下のスタートボタンをクリックしてコントロール・パネルを開きます。
その中の 「バックアップの作成」 を選択し、「修復ディスクの作成」 をクリックすると、記録メディアの種類を選択する画面になります。

最初に述べたように、万一パソコンが起動しなくなった場合には、このシステム修復ディスクがないとお手上げになります。皆様もぜひ早くシステム修復ディスクを作成して手許に保管して下さい。


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(2017/01/15(日) 07:04)

 漱石の跡を歩く
 作家夏目漱石は、1916年(大正5年)12月9日にこの世を去りました。したがって、本2017年が漱石没後100周年になります。

漱石は、生涯の大部分を東京ですごした江戸っ子作家でした。生まれたのも死んだのも東京で、お墓も東京・雑司が谷にあります。
現在でも東京の方々に漱石に関係のある土地・建物が残っており、私ども文学ファンが漱石の跡をたどることができます。

漱石の跡 一時東京・御茶ノ水でインターネット関係の仕事をしていたとき、明治大学の裏に御茶ノ水小学校という小学校を見かけました。
その小学校が漱石が通った錦華小学校の後身であることを知りました。

同小学校の前には、『吾輩は猫である』 の冒頭の一節を刻んだ石碑がありました(左の写真)。

 当時、錦華小学校は上流家庭の子弟が通う名門校だったようで、漱石は他の小学校からここに転校してきたとのことです。
漱石はこの錦華小学校を優秀な成績で飛び級卒業し、府立一中に進学しました。

第一高等学校を経て東京帝大を卒業した漱石は、後の小説 『坊ちゃん』 の舞台となった松山中学の教諭を経て、熊本第五高等学校(現在の熊本大学)の教授になりました。

漱石の跡 その後、漱石は文部省留学生としてロンドンに派遣されました。留学先で漱石は強度の神経衰弱になり、留学期間を一年切り上げて帰国しました。

その後、漱石は第一高等学校教授、東京大学講師となりました。写真は、漱石が卒業し、後に教鞭をとった東大文学部の建物の入口です。

 上記東大文学部の建物は、東大のキャンパスに現存する建物の中でももっとも古いものの一つです。

漱石は、東京帝大での英語教師の仕事に嫌気がさしていましたが、そこに亡友正岡子規の弟子俳人高浜虚子がやってきました。
虚子は漱石の愚痴を聞き、気分転換のために小説を書いて虚子が主宰する俳誌 『ホトトギス』 に掲載したらどうかとすすめました。

漱石の跡 漱石も乗り気になって、まずは目の前にいる漱石家の猫を主人公にして小説を書き始めました。

漱石は、この時期は文京区根津神社の近くの貸家に住んでいました。
漱石がそこでデビュー作 『我輩は猫である』 など初期の名作を執筆したことから、その家は 「猫の家」 とよばれます。

 現在はその家は「明治村」に移建され、根津の旧居址に川端康成の筆になる石碑(上の写真)が立っています。石碑の横のコンクリート塀の上には、ブロンズの猫が一匹置かれてありました(^_^)。

なお、漱石が入居する前には、森鴎外がこの家に住んでいました。鴎外はここを出てから、近くの千駄木町に邸宅を構えました。

漱石の跡 小説 『吾輩は猫である』 の中で苦沙弥先生宅に集う愛すべきキャラクタの中に、「水島寒月君」 という人がいます。

小説中では寒月君は学問最高の府を一番で卒業した天下の秀才ということになっていますが、これは漱石の弟子でもあった物理学者寺田寅彦をモデルとしたといわれます。

 上の写真は、東大理学部の中でももっとも古い建物で、現在では化学科の教室になっているそうです。小説 『我輩は猫である』 の中で寒月君が実験に使用する球レンズを磨いたのは、寅彦の職場であったこの建物ではないかと思われます。

漱石の初期の名作 『三四郎』 に登場して一躍東京名所の一つとなった三四郎池は、東大キャンパスの前身である加賀藩前田家上屋敷の時代からあり、「ひょうたん池」 と呼ばれていたとのことです。

この池は、面積はさほど大きくありませんが、シーズンごとに池の周囲の表情が大きく変わり、訪れる人々を楽しませてくれます。

小説 『三四郎』 では、この池のほとりで三四郎は団扇を持った若い女性里見美禰子(みねこ)に出会います。美禰子のモデルは、文芸誌 『青鞜』 の創刊者平塚らいてうであったといわれます。

漱石の跡


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(2017/01/13(金) 07:05)

 多摩川筋を下る
 奥多摩・吉野梅郷の吉川英治記念館を訪ねたのち、多摩川の渓谷に出て川筋と並行する青梅街道を下り始めました。

この辺では青梅街道は多摩川の北側にあり、そのさらに北側の高いところにJR青梅線が通っています。JR青梅線の駅4つほどの距離を歩いて青梅線青梅駅まで行こうと思います。

多摩川筋 1時間ほども歩いたあたりで、青梅街道の左側に広がる崖に大きな鳥居があるのを目にしました。

近寄ると、その大鳥居の奥に長い石段がかかっています。石段は非常に急で、その上のほうは両側の木々の紅葉がかかって見えませんでした。
その上にはなにか神社があるのでしょうか。

 後で調べて、この石段を登ったあたりには梅岩寺という真言宗の古刹があるのを知りました。奥多摩には 「多摩八十八ヶ所霊場」 があり、真言宗のお寺がかなりあるようです。

私どもが行ったのは12月の初めで、奥多摩の山々はすでに鮮やかに紅葉していました。初冬の日差しが透けて明るい雑木林の中を歩いて、お寺のほうに登って行きました。


多摩川筋

 しばらく行くと、急に目の前が開けて梅岩寺の本堂の前に出ました。

梅岩寺は、寛朝が長徳年間(995-998)に開山し、一時は禅宗の寺でしたが、その後真言宗豊山派に改宗しました。多摩八十八ヶ所霊場の46番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の70番に当たるそうです。

現在の建物は昭和十年九月に落慶したものということです。

多摩川筋

多摩川筋 本堂の向かって左側には、編笠をかぶって錫杖を手にした弘法大師の銅像が立っていました。
真言宗のお寺には、この弘法大師像が置かれているところが多いようです。

京都にある東寺にそれらと同じ弘法大師像が置かれていますが、その東寺の大師像からコピーした銅像を置いているのでしょう。

 本堂から少し下がったところに、下の写真の大きな門がありました。その外側に幅広い石段が下に向かって伸びています。

この門が梅岩寺の山門で、こちら側が正面入口になっているようです。
山門の両側にはそれぞれ大きな仁王像が納められており、なかなか堂々たる造りでした。

多摩川筋


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(2017/01/11(水) 06:54)

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